« 「話す」と「語る」(その4) | トップページ | 「話す」と「語る」(その6) »

2013年1月27日 (日)

「話す」と「語る」(その5)

「話す」行為の根底には話者の「やわらかい」意識がある。
「語る」行為の根底には話者の「かたい」意識がある。

前回はそんな対照に気がついた。

話者の意識を別にしても、「はなす」と「やわらかい」、「かたる」と「かたい」の間にはある種の「つながり」を感じる。

「はなす」の「はな」は声門音と鼻音。
「やわらかさ」を感じさせる音声でできてている。

一方、「かたる」の「かた」は破裂音。
「かたさ」を感じさせる音声でできている。

語の形態とその意味との間に何らかの必然的なつながりがありそうな気がする。

語とその意味との関係は恣意的である。
これが現代言語学の基本的なテーゼだそうだ。

語と意味との関係はある言語集団における約束事に過ぎない。
「つくえ」という音声記号と「つくえ」という事物の出会いは、ただの偶然に過ぎない。
両者の間に本質的な結びつきは何もない。

みんなが受け入れるなら、これまで「つくえ」と呼んでいたものを「いす」と呼び、「いす」と呼んでいたものを「つくえ」と呼んでも差し支えない。

ことばという記号はそういうものだ、と現代言語学は言う。

しかし現代言語学にたてつくようだけれども、語とその意味の関係をそんなにドライに割り切ってよいものだろうか?

語と意味の関係はそんなにかりそめの、はかないものだろうか?
私はどうしても割り切れない。

「はなす」が「話す」になり、「かたる」が「語る」になったのはただの偶然などではなく、そうなる宿命であったのではないか?

「話す」のやわらかい感触、「語る」のかたい感触を思い浮かべるにつけそんな疑念がわいてくる。

「きみねえ、そんなこだわりは慣用にとらわれている証拠だよ」
そんなふうに軽くあしらわれてしまうかもしれない。

それでも、語と意味の間には本質的な関係がある…。
ガリレオみたいに人知れずそうつぶやいてみたくなる。

|

« 「話す」と「語る」(その4) | トップページ | 「話す」と「語る」(その6) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 「話す」と「語る」(その4) | トップページ | 「話す」と「語る」(その6) »