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2012年10月 7日 (日)

「思う」と「考える」(その4)

「思い」や「考え」という内的言語の生成を意味する動詞の名詞形は「浮かぶ」という動詞と共起する。

少し前、そんなお話をした。

つまり「思う」や「考える」という動詞には空間的な上昇感覚が付随しているのだ。
「どこか深いところから浮かび上がってくる泡のようなもの」というイメージが、名詞形である「思い」や「考え」に共通している。

ところで、この事実は日本語だけにあらわれた現象なのだろうか?
「思う」や「考える」にあたる英語や中国語、ペルシャ語ではどうなのだろう?

このことはそれぞれの言語圏における内的言語のあり方を比較検討する上で手がかりになりそうな気がする。

とはいえ、なにぶん内的言語は雲をつかむような存在だから本気で研究するのは困難かもしれない。
だいいち、英語圏の人々の内的言語は英語である、という保証はどこにもないのだから。

気を取り直してもう少し現実的な考察に移ろう。

「思う」と「考える」は漢語では「思考」とひとくくりにされているけれども、やはり性質はちがう。

「思う」は感覚的、感性的なはたらき。
「考える」は論理的、理性的なはたらき。

そんな対照が穏当なところだろう。

「お腹がすいたなあ」と「思う」。
「今晩、何食べようか」と「考える」。

この二つの文例にもその対照が端的にあらわれている。

ほかにも対照はある。
「思う」がとる目的語は「もの」であるのに対して、「考える」がとる目的語は「こと」である。

「かれはもの思いに沈んでいる」
「おいどうした、ぼんやりして」「あっ、ちょっと考えごとをしていたので…」

そういえば「話す」と「語る」の対照を考えていたときにも、「もの」と「こと」がキーワードとして登場した。

あのとき、「もの」と「こと」の違いとして次のような対照をお示しした。

「もの」は持続的、継続的、反復的ひいては法則的性格を有する。
「こと」は瞬間的、単発的、偶発的ひいてはニュース的性格を有する。

「こと」はニュース的性格を有するから、過去の前例にとらわれずその都度合理的な分析、判断が必要である。
だから、「こと」は「考える」と結びつく。

「思う」はその人ごとの生得的、持続的な感性の発現であるから「もの」と結びつく。

という解釈は、こじつけに過ぎるだろうか?

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