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2012年9月22日 (土)

「思う」と「考える」(その2)

だれも知らない深い海の底で、ひっそりと生まれることばの卵。

やがてそれが小さな泡となって上昇をはじめ意識の表層にたどり着いたとき、ことばが誕生する。

でもその段階では、ことばはまだ人の内面に秘められている。
ことばが存在している、と言えるかどうか微妙な段階。

その次のステップ、つまり「話す」あるいは「書く」という具体的行為を経て、はじめてことばは社会的存在として認められることになる。

そんなことばの誕生と成長の物語を前回の最後にお話しした。

ちょっぴりビーナスの誕生にも似てある意味で美しいイメージだけれども、ひょっとするとこれはとんでもない勘違いかもしれない。

いろいろな人の説に触れていると、そんなふうにも思える。

まず「思い」や「考え」が先行して存在し、しかるのちそれが「話す」や「書く」という行為を通じて実体化する。

というのが常識的な感覚だけれど、実はこれは錯覚なのだ。
そんな説がある。

人がことばを口にする、あるいは文字化する瞬間に、「思い」や「考え」も同時に成立する。
それ以前には何もない。
そんな説。

常識とは逆の発想だから、ついつい「そんなばかな…」と反論したくなる。
しかし、「じゃあ、思いや考えが先行するというその証拠を見せろ」と逆襲されたら、答えに窮してしまう。

納得はいかないけれども、この説にも一理ありそうな気はする。

たしかにこのブログでも、書き始めたときには考えもしていなかったことが書かれているのをあとになって発見することは少なくない。

「話す」あるいは「書く」という身体的行為が引き金になって、「考える」あるいは「思う」という思考活動がはじまる、という逆転現象もあるような気がしてきた。

悲しいから泣くのではなくて泣くから悲しいのだという説はよく聞くけれども、それと同じ。

あれこれ悩んでいるひまがあったら、話してみろ、書いてみろ、というのは案外いいアドバイスかもしれない。

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