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2012年8月24日 (金)

文字言語の逸脱(その2)

このブログでは、これまで幾度となく音声言語と文字言語の対照について愚考を重ねてきた。

その対照の中で一つ抜けていたことに道具性の有無がある。

話しことばの場合、言語と人間は直結している。
人はその身体を用いて、具体的には声帯を震わせそれを空気振動に変換して目の前の相手にことばを伝える。
この方式は、人間と言語が誕生して以来まったく変わっていない。

しかし、書きことばの場合、言語と人間の間には道具が介在せざるを得ない。
亀の甲羅、粘土板、枯れ枝…。
どんなに原始的であっても、書きことばはその誕生の当初から道具が必要だった。

そして道具は人間の身体とちがって、時代とともに進化を遂げるものだ。

亀の甲羅、粘土板、枯れ枝の時代から紙と筆の時代を経て、今日パソコン、ケータイの時代がやってきた。

当然、道具を扱うわたしたちの身ぶりも変わらざるを得ない。

アナログ的、連続的な動作から、デジタル的、断続的な動作へ。
「書く」という穏やかな動きを逸脱して、「たたく」、「打つ」、「押す」という攻撃的な身ぶりに変わってきた。

このことが、それによって生み出される書きことばの内容に影響を及ぼさないはずがない。
まして、パソコン、ケータイに直結しているネット空間は匿名性が高い。
どれだけ攻撃的な言辞を書きこんでもその責任を問われる恐れはないのだ。

むかしは、清らかな文机の前に端座して入念に墨をすり、気息を整えてからおもむろに筆を執ったものである。
そのような環境では、無責任な攻撃的言辞はおのずから抑制される。
それが、パソコンやケータイではたやすく行えるのだ。

IT技術、言語処理技術はわたしたちの言語活動を飛躍的に効率化したけれども、一方では野放図で無責任かつ刹那的な言語活動の暴走にも道を開いてしまった。

そしてその道の行く先には、言語活動そのものの荒廃と退廃が待ち受けている。
前回の最後のほうで表明したのはそんな懸念だった。

音声言語の場合、言語と人間との間には道具は介在していない。
人々は、文字通り「身をもって」ことばを発しなければならない。

その身体性が、話しことばの荒廃と退廃への歯止めになっている。
やはり音声言語がわたしたちの言語活動にとって最後のよりどころになるのだろうか。

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