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2012年7月21日 (土)

「話す」と「語る」(その2)

「話す」と「語る」について、もう少し比較してみたい。

前回、「語る」の背後にはストーリーあるいは筋書きの存在を感じる、というお話をした。
それだけでなく、「語る」行為が成り立つためにはしかるべき舞台設定が必要だ。

「人々が静まったのを確かめてから、かれはおもむろに語りはじめた…」

傾聴の姿勢を示す人々の存在がなければ、語りは成り立たない。

聴衆、舞台、筋書きとくれば、語り手は演者である。
演者は筋書きに沿って、事実や真実でないことも演ずることができる。

だから、「語る」は「騙る」に通じる。

そこへいくと、「話す」はいたって素朴である。
そこには「作為」など感じ取れない。

「話す」と「語る」に対する人々の意識のちがいは、「お」がつくかどうかでもわかる。

「おはなし」、「おしゃべり」という言いかたはあっても「おかたり」とは言えない。

「おいも」、「おまめ」、「お花」という言いかたがあるように、語頭につく「お」は対象に対する親愛の情をあらわす。

人は「話す」や「しゃべる」という行為に対しては、気を許し親しみを感じてるいる。

しかし、「語る」という行為に対しては距離を置き、気を許していないところがある。
なにしろ、「語る」は「騙る」に通じるのだから。

むかしは改まった席での形式ばった口上のことをカタリといって、気楽な世間話などのハナシとは別ものであった。
そんなことを柳田國男も言っている。

これまた、「語る」の演劇的性格と「話す」の日常的性格を言い当てた指摘だと思う。

前回の終わりに、「語る」がとる目的語は「もの」、「話す」がとる目的語は「こと」、というお話をした。
この違いが、「語る」の演劇的性格と「話す」の日常的性格という対照とどこかでつながっている…。

そんな直感があるのだけれど、このことをみなさんに納得していただけるようなうまい説明がいまのところ思いつかない。残念!

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