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2012年6月 3日 (日)

ひとりきりのことば(その2)

先週はひとり山道を歩いていて、「自分語」のことに想いが及んだ。

だれもいない山路に、音声言語でもない、文字言語でもない、日本語かどうかも定かでない「自分語」だけが響いていた。

えんえんと続いた文字言語と音声言語のバトルの果てに、私は「自分語」を見出した。

ことばの表現形式は、文字言語と音声言語だけじゃない。
もうひとつの形式があった…。

この形式にとりあえず「自分語」という名を与えたのだけれど、文字言語や音声言語との対比で言うならば、「無声言語」と言ってもいいし、「内的言語」と言ってもいい。

「内的言語」は客観的な存在証明が不可能だ。

もちろん、日常の経験からその存在を推測することはできる。
「ああ、こいつはいま何かよからぬことを考えているな」と感じることはよくある。
「いまこいつの心の中では、かれなりの内的言語がうずまいていることだろう」と推論することもできる。

しかし、それ以上はどうしても分析を進めることができない。
かれの内的言語がどのような音韻構造や文法構造を持っているかなど、実証のかぎりでない。

だったら、そんなのは結局言語と言えないんじゃないの?
そんな意見も聞こえてくる。

言語を意味と音声が結びついたもの、他者とのコミュニケーションの道具、と定義するなら内的言語には言語の資格がないことになる。

なるほど、そういう定義を振りかざしてこられるとこっちは一言もない。
言語以前の形式、と一蹴されるならそれもよかろう。

それでも、自分だけが知覚できるこの言語以前の形式を無視することはできない。
わたしたちに思考することを可能ならしめた主観的、直感的存在…。

存在証明が不可能な存在、ということでは神さまに似ている。

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