« ひとりきりのことば(その2) | トップページ | 神さまとの交信 »

2012年6月 8日 (金)

ひとりきりのことば(その3)

音声言語でもない、文字言語でもない、私の内宇宙だけに存在していることば。
それを、前回は「自分語」と言ったり「無声言語」と言ったり「内的言語」と言ったりした。

ことばの定義次第では、そんな検証不可能なしろものは言語ではない、と言われるかも…。
そんな危惧も表明した。

しかしそんな危惧は、しょせん言語的不可知論に陥るのが関の山。
そう割り切って、この先は自分語も一応言語であるとして話を進めよう。

まずはじめに音声言語があり、はるかに遅れて文字言語が成立した。
これはだれもが認める歴史的事実だ。

少し前にはこのことから、文字言語は音声言語のうんと年の離れた弟になぞらえたこともあった。
あるいは、この両者、案外赤の他人かもしれない、と思い直すこともあった。

文字言語と音声言語の関係はかくのごとくだけれども、では音声言語と内的言語の関係はどうなのだ?

あるとき、ある太古人の心の中に、ある「考え」がきざした。

「考え」の内容は何でもいい。
「人生とは何か?」でもいいし、「腹減ったなあ」でもいい。

しかし、かれの発音器官が未発達なうちはこれを音声言語化することはできない。
内的言語のままとどめ置かれる。

そうこうするうちに何万年かが経ち、人類の音声器官も発達し「人生とは何か?」や「腹減ったなあ」を音声化することができるようになる。

内的言語を外部環境に送り出すことができるようになったのだ。
この日をもって、人類の言語の誕生日とすることもできる。

以上のような成り行きは、内的言語先行説といっていい。
しかし一方、人類はことばを発声することができるようになったその瞬間に思考することも可能になった、という同時発生説もある。

私自身のブログ製作作業を内省してみても、内的言語先行説と同時発生説は決着をつけがたい。
私は自分の思っていることをこうして文字化しているようにふつう感じている。

しかし、それは錯覚かもしれない。
実は文字化してはじめて自分はこう考えていたのだった、ということを知る経験もある。

宇宙開闢のとき神さまは「光あれ!」と言った、すると光が生じた。
と創世記は語っている。

この場合、神さまのことばは音声言語と考えていいのだろうか?
それとも、わたしたちには検証できない内的言語なのだろうか?

「はじめにことばがあった」というヨハネ福音書の一節も気になる。
この場合の「ことば」とは内的言語なのか音声言語なのか…?

内的言語に目を向けたおかげでふだん気にも留めなかったことが気になりだした。
いやはや厄介なことである。

|

« ひとりきりのことば(その2) | トップページ | 神さまとの交信 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« ひとりきりのことば(その2) | トップページ | 神さまとの交信 »