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2012年6月29日 (金)

「はなす」ことの原義

わたしたちの言語生活は、音声言語、文字言語、それに内的言語から成り立っている。

音声言語と文字言語は客観的存在だけれども、内的言語は主観的存在である。
だから、その内容は他人にはうかがい知れない。

内的言語は人々の心の内、頭の中に住みついている。
たしかに神さまとの交信はできるかもしれないが、そのままでは人と人とのコミュニケーションには役立たない。

どんなにすてきなことばでも、そのままでは無に等しい。

音声言語や文字言語は、明るい外の世界で華々しく活躍している。
それに比べて私は、こんな薄暗がりの中でだれにも知られずにひっそり暮らさなければならないなんて…。

そんなふうに、内的言語はひがんでいるだろうか?

その気持ちはわからぬでもないが、まだ未熟なおまえたちをいきなり外の世界のきびしい風にさらすのはふびんでならないのだ。

内的言語のすみかである人の心、頭の中はいわば胎内でありゆりかごである。

「かれは長年大河小説の構想を温めている」なんて言いかたがある。

そう、ことばを温めているのだ。
ことばが十分成熟するまで、温めている。

そして、そのことを確かめることができてはじめて人は内的言語を「外」に送り出す。
それは、何がしかの決断を要する行いである。

いったん外の世界に出てしまえば、あとはひとり立ちするほかない。
外の世界に放り出されたことばをどのように受け入れるかは、聞き手、読み手の権利に属する。
どのような仕打ちを受けたとて、文句は言えないのだ。

いま、このことばを「外」に出しても大丈夫だろうか?

日本語の「はなす」という動詞は、この重い決断を伴う行為をあらわしている。

「話す」は「放す」である。

それまで、内に抱え込んでいたことば、自分だけが占有していたことばを「外」に放って人々と分かち合おう…。

公共性、共同性を指向する崇高な決断。
それが「はなす」という動詞の原義なのだ。

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