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2012年6月23日 (土)

神さまとの交信(その2)

ことばによる人と人とのコミュニケーションには、音声言語と文字言語の二つの形式がある。

でもそれだけじゃない。
文字にも音声にも依存しない内的言語が存在する。

ここしばらく、この内的言語のことを自分語と言ったり、無声言語と言ったり、純粋言語と言ったり、絶対言語と言ったり、霊的言語と言ったり、超言語と言ったり気ままにさまざまに表現してきた。

言い方はどうでもいいけれど、要はことばには音声言語、文字言語以外の存在形式があるということだ。

内的言語はつかみどころのないことばだから言語学の対象にはならないし、一般に論じられることも意識されることもあまりない。

しかし、神さまとの関係を想定するとにわかに存在感を増してくる。

神さまは、選ばれた人間に内的言語によって語りかけてくる。
そして、目覚めたかれは神さまのことばを音声言語によって人々に伝えようとする。

この段階では、文字言語は登場しない。
お釈迦さまもイエスもマホメットも、机に向かって教えを書いたりはしない。
かれらの説教は決まって話しことばで行われるのだ。

預言者や教祖が退場したのち、はじめて弟子たちがよってたかってその教えを書きことばにまとめようとする。

正しい教えがのちの世につたえられなくなるのでは?
そんな危惧がきざしたとき、弟子たちは不本意ながらも文字に頼らざるを得ない。

ただし、仏典や聖書、コーランなど書かれた教えはそのままでは単なる記録文書に過ぎない。

それらは読み上げられ、朗唱されること、つまり音声言語化されることによってふたたび神さまのことばとしての生命力を取り戻す。

教会における神父さまの聖書朗読、モスクにおけるコーランの朗唱、伽藍における僧侶たちの読経の響き。
それらの音声が人々の魂に沁み込み、やがて内的言語に還元される…。

かくして神さまのことばは、内的言語、音声言語、文字言語の循環を通じて地域を超え時を超えて伝えられていく。
内的言語という要素を抜きにしては、このダイナミズムは成立しない。

これで、内的言語が実在することの間接的な証明になっているだろうか?

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