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2012年5月26日 (土)

ひとりきりのことば

山道を登りながら考えた。

言語とは何だろう?

同じウォーキングでも、街中ならいやでも店の看板やさまざまな標識が目に入る。
つまり文字言語があふれている。

駅の近くを過ぎれば「まもなく3番線に電車が到着いたします。白線の外側に下がって…」というアナウンスが自然に耳に入ってくる。
つまり音声言語もあふれている。

しかしここは山の中だから、目の前にあるのは木々や草ばかりである。
遠くを望んでも、青い空、白い雲、それに山並みの稜線が見えるだけ。

ひとりきりの山歩きだから、しゃべるわけでもない。
聞こえてくるのは、小鳥たちのさえずりと風にそよぐ木々の葉ずれだけである。

じゃあ、ここは文字言語も音声言語も存在しない無言語の世界だろうか?

いや、そうではあるまい。

げんに私は山道を歩きながら、こうやって考えている。
頭の中で、ことばがあわただしく交錯している。

文字として見ることもできないし声として聞くこともできない。
でも、まちがいなくそこには言語が存在している。

文字にも音声にも依存しない、純粋言語が存在している。

ところで、この「言語」は日本語だろうか?
日本語と言えるだろうか?

わたしたちは、感覚的にいかにも日本語で思考しているように感じている。
しかし、文字や音声を介して他人と共有することのできない言語であるから、それが日本語だとか英語だとか判定することは原理的にできないはずである。

わたしたちが「日本語で考えている」というのは錯覚に過ぎない。
あえて言えば、それは「自分語」というしかない言語なのだ。

自分語であれ何であれ、この山中にはたしかに言語が存在している。

人がいて、かれが思考するかぎり、そこには言語が存在する。
いや、言語が存在するからこそ人は思考することができる。

言語は人の思考に先立って、この世に存在していたのだ。

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