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2012年4月13日 (金)

自然児と優等生のバトル

広々としたことばの平原を自由に駆け回る自然児、何とかこいつを馴致しようと必死で追いかける優等生…。

話しことばと書きことばの関係を、前回はそんなふうにイメージしてみた。

ところで話しことばと書きことばは、結局のところどっちのほうが「えらい」のだろうか?

聖書によれば、ことばは人類誕生よりはるか以前、天地開闢の時すでに在った。
なにしろ、神さまは「光あれ」という「ことば」を発して天地創造を始めたのだから。

これに対して、文字の歴史はどんなにさかのぼっても1万年に届かない。

かりに音声言語と文字言語とは兄弟の関係にあるとすれば、文字言語ははるかに年の離れた弟だ。
長幼の序を尊重するならば、音声言語のほうがうんとえらいことになる。

しかし、この単純な結論は世の常識と少しずれているような気がする。
自然児と優等生とでは、優等生のほうがえらい、とするのが世間一般の受け止め方だ。

もう少し別のたとえ方をするならば、文字言語は謹厳実直な先生、音声言語は自由奔放な生徒、ということになるだろう。
学校では先生のほうがえらいに決まっている。

一方で、本当に大切なことは文字では伝えられない、という観念もいまだに根強く残っている。

聖書にせよ、コーランにせよ、お経にせよテキストの形にはなっているものの、朗読、朗唱することによってはじめてありがたみが出る。

なにしろ「聖」の文字は「口」と「耳」でできているのだ。
「目」や「手」によって神聖なことばを伝えることはできない、という人々の意識があらわれている。

もともと文字は市場における取引の備忘のために発明された、という説もあるくらいだ。
そんな世俗の文字に神聖なことばはふさわしくない。

とすれば、やはり音声言語のほうがえらい、という結論になる…。

と結論を急ごうとすると、またしても文字言語派から反論の火の手があがる。

人間にとって文化、文明は必須のものだけれど、そもそも「文」は書きことばをあらわしているのだ。
「文」がなければ、人間はいつまでたっても悲惨な野蛮状態から抜け出ることはできないじゃないか!

かくして、「どちらがえらい?」のバトルは容易に決着がつかない。

そもそも文字言語と音声言語のどちらがえらいかなんて比較に何か意味でもあるの?

そんな声が聞こえるのも無理のないことだけれど、この言語表現のふたつの形態とその関係を考える上では、それはそれで役に立つバトルだと思う。

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