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2012年3月30日 (金)

「わける」と「わかる」(その3)

前回は、図書館から借りてきたジャック・ラカンの『エクリⅠ』(宮本忠雄ほか訳)のさわりを、ため息まじりでご紹介した。

前回の例文を、ここに再録しておこう。

「自己からの他人に対する時間性をおびた問い合わせとしてのソフィズムの真理、集合的論理の基本的形式としてのあらかじめする主観的な確言」

たしかに日本語の語彙と文法を用いて書かれているのだけれど、この日本語訳文が伝えようとしている「意味」が本当に「わかる」日本語話者はどれだけいるだろう?

おそらく10人のうち、9人は「わからない」というだろう。

ことばが人から人へメッセージを伝えることを本旨とするなら、この例文はことばとして価値がない、ということになるのだろうか?

しかし、そうでもなさそうだ。

げんに、日本でも訳書として出版され図書館の蔵書におさまっていることを考えれば、本としての価値が認められていることになる。

ただし、その価値は文字言語の形態をとっている場合に限られるのではないだろうか?

はたして人は、話しことばとして上のような例文を口にするだろうか?
原著者であるラカンも、訳者である宮本忠雄さんたちも、講演や座談の場で上のような例文をそのまま話すとは思えない。

もし、例文の通りに話し始めたとしたら、聞き手から待ったがかかるにちがいない。

「ちょ、ちょっと待って。それ、どういう意味?」

そうなると、ラカンも宮本さんも注釈とかみくだきを始めないわけにはいかない。

「つまり、ここで言いたいのはこういうことなんだ…」

文字言語と音声言語が行われる場。
その場を支配している力学は対照的だ。

音声言語の場では、聞き手が主導権を握っている。
「わかる」ために聞き手が求めることを話し手は無視するわけにはいかない。

反対に文字言語の場では、書き手が主導権を握っている。
書き手は読み手が自分の水準まではい上がってくることを求めることができる。

書き手にとって都合がいいことに、難解な本は難解であるがゆえにありがたがられるという倒錯的な現象もある。

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