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2012年3月 2日 (金)

さ行音の謎

さわらび。
しあわせ。
すずかけ。
せせらぎ。
そよかぜ…。

さ行音で始まることばが好き、という人は多い。

たしかに上のようなことばを声に出して読んでみると、「涼しい秋の爽やかな風が澄みきった空を吹きわたる」感じがする。
耳もとで「すてきなしらせをそっとささやかれたら」快い。

記号表現と記号内容の関係は恣意的、というのが近代言語学の基本的なテーゼだそうだ。
単なる約束事に過ぎないから、みなさんの合意さえあれば「牛」のことを「うま」という音声記号であらわしてもさしつかえない。

だからといって、上の語例をたとえばな行音で代替できるものかどうか?

なわらび。
にあわせ。
ぬずかけ。
ねせらぎ。
のよかぜ…。

何だか変だ。
それとも、ことばは慣用だから慣れてしまえばこの違和感は解消されるのだろうか?

ちょっとちがうような気がする。
この違和感には単なる慣れの問題には還元できない何かがある。

さ行音で始まることばには、記号性だけでなく象徴性も含まれているような気がする。

ささやき。
しおさい。
すみれ。
せり。
そば…。

たとえば「部屋が片付いてすっきりしました」というオノマトペ表現があるけれど、「久々に風呂に入ってさっぱりしました」、「風呂からあがってクリームを塗ると肌がしっとりしました」などの表現もさ行音以外では代替できそうもない。

ここまでは日本語、それも和語についてのお話しだけれど、同じような現象が他の言語でもあるのかどうか。
たとえば、中国語では、英語では、シンハラ語ではどうなのだろう?
言語学のテーゼからはみ出すような事例はないのだろうか?

プラトンもことばとそれが指し示すものとの関係について熱っぽく議論しているけれど、古代ギリシャ語でも何か思い当たるふしがあったのだろうか?

さ行音は、発音器官が作るせまい息の道を擦るようにして出てくる。
さ行音で始まることばにいつも感じられる風が通り過ぎる感覚は、この調音の仕組みとも関係がありそうだ。

さ行音で始まることばを口ずさんでいると、たんに恣意的という身もふたもない言いかたでは片づけられないことばの奥深さを感じる。

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