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2012年3月10日 (土)

ことばの境界域(その2)

人間が発する「あーっ」とか「キャー!」とか「ほおっ」という音声。
あるいはオノマトペの数々。
さらに、意味以前の語感の世界…。

このところ、そんなことばの境界域をさまよっている。

ことばの辺境をさすらう中でしみじみ思うのは、ことばとことば以前の音声の間に明確な境界線を引くことなどできない、ということだ。

音声や意味の分節の度合いが高ければことばとみなされるし、そうでなければことばとして扱われない。
しょせん程度の差、なのだ。

ということであれば、音声や意味そのものよりも「分節」という作用に焦点を当てなければならない。

どの民族の神話でも、世界の始まりはカオスだったと言っている。
「くらげなす漂える」世界だった。

それを分節し、まともな世界にしつらえていったのが神さまだった。

神さまは昼と夜を分かち、天と地を分かち…。

エントロピーの法則を逆転しようというのだから、やはり神さまはえらい。
敬われてしかるべきなのだ。

しかしその神さまとて、素手で世界を創造したわけではない。
「ことば」という道具を使った。

「光あれ!」と神が言った。すると光があった…。

ことばがなければ、さすがの神さまも世界を創造できなかった。

だとすれば、神さまよりもことばのほうがえらい、という結論になる。
ことばがなければ、この世の分節は始まらなかった。

ひょっとすると神さますら存在できなかったかもしれない。
そもそも神さまには「神」という「ことば」が与えられ、他から分節されているのだ。

「はじめにことばがあった」
そんな福音書の一節がつくづく納得できる。

しからば、その「ことば」は一体どこからやってきたのか?

こんな途方もない問いが私の前に立ちはだかる。

何だか目がくらんできそう…。

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