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2012年3月23日 (金)

「わける」と「わかる」(その2)

「内容は何でもいいんですが、とにかく難しい本はありませんか?」

先週の日曜日、図書館に行って相談係のおばさんにそう訊ねてみた。

「とにかく難しい本ねえ…。ちょっと待って。」

そう言って書庫に消えたおばさんがしばしののち持ち出してきた分厚い本が、いま私の手許にある。
書名はジャック・ラカン『エクリⅠ』(宮本忠雄ほか訳)。

任意のページを開いてみよう。たとえば次のような文がある。

「自己からの他人に対する時間性をおびた問い合わせとしてのソフィズムの真理、集合的論理の基本的形式としてのあらかじめする主観的な確言」

この本は、全編がこんな調子なのだ。

うーむ、たしかに難しい。
これほど分からない本も珍しい。

相談係のおばさんの判断は実に正しかった。

上の文はたしかに日本語の語彙と文法を用いて書かれているのだけれど、少なくとも私には何を言いたいのか了解不能である。
つまり、分からない。

印象としては、手がかり足がかりのないつるつるの壁が目の前に立ちはだかっている感じ。

前回、わたしたちは「分ける」ことができるから「分かる」のだ、というお話をした。

「手がかり足がかりのないつるつるの壁」は分けるための手だてがない。
だから分からない。

原文はフランス語だそうだ。
フランス語のネイティブが原文を読む場合、少しはましなのだろうか?

日本語訳文と違って、ひとつひとつの語彙の中に手がかり足がかりをつかむことができるかもしれない。
ひとつひとつの語彙の歴史と伝統の中に、手がかり足がかりを発見できるかもしれない。

日本語訳文に移し替えるとき、そのような語彙の歴史と伝統が切り離されてしまう。
だから、ますます分からなくなる。

日本語訳文と言ったけれど、この文では抽象的な漢語の含有率が高い。
漢語はたしかに日本語の語彙として認められているけれども、ありていにいえば中国語である。

わたしたち日本語ネイティブにとっては、和語よりも距離のある語彙である。
このような漢語の羅列が「分からなさ」をいやましにする。

だからといって、上の文を無理矢理やまとことばだけで言いあらわそうとすると、神主さんの祝詞のようになってしまって、なおさらのこと分からなくなる。

上の文は、ひとつのことばを他の言語に翻訳するときの限界を露呈している。

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