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2012年2月17日 (金)

ことばと語感(その2)

前回もちょっと顔を出したけれど、清音、濁音という言語音の分類がある。

「か」に対して「が」。
「は」に対して「ば」。

言語音の実体は目に見えない空気振動のはずなのに「すんだ音」、「にごった音」と視覚的表現を使って分類する。

そのことで、「か」と「が」、「は」と「ば」は同じ言語音だけれど平等じゃないことがわかる。
そこには価値判断が存在する。

だから、「かおり」という女の子はいても「がおり」という子は一人もいない。
「はなえ」という名は存在しても「ばなえ」はありえない。

なぜ清音は好まれ、濁音は避けられるのか?

という疑問を煎じつめると、言語音に対する快不快という原始的な身体反応にたどり着く。
わたしたちの身体は清音に対しては快を感じ、濁音に対しては不快を感じるようにできているのだ。

語感というつかみどころのない存在も、結局音に対するこの素朴な身体反応に根ざしている。

前回記事では、擬態語はこの語感に依存しているというお話をした。

意味を持たずとも語感だけで人の名は成立する、というお話もした。

つくづく言語の身体性というものを感じる。

「ようやく雪がやみ、空がからりと晴れ上がった」

「からり」という言語音に対して、わたしたちの身体はある特定の反応をする。
そのはたらきが、この表現を可能にする。

長い忍従の時を経て、ようやく晴天を迎えた喜びと解放感、開放感がひしひしと伝わってくる。

もし、この「からり」の部分を「がらり」と入れ替えればわたしたちの身体は別の反応を示すだろう。
そうすると上の表現はたちまち成り立たなくなる。

人間の身体は融通の利かないものなのだ。

言語記号は恣意的とよく言われるけれど、身体反応はそんな便利なものじゃない。
ここらあたり、言語学はどのように折り合いをつけているのだろう?

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