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2012年1月29日 (日)

意味と音声

ひとくちにオノマトペというけれど、擬音語、擬声語と擬態語はまるでちがう。

そもそも擬態語には対応する物理音が存在しない。

つまり、前回お話しした「ほんもの」がない。
「ほんもの」がない以上、「にせもの」もない。
したがって、「にせもの」を「ほんもの」に見立てる「暗黙の了解」という裏技も使えない。

擬態語というのはそんなことばである。

「雪がしんしんと降りつもる」と言ったって、どこからか「しんしん」という音が聞こえてくるわけじゃない。

「秋の日がとっぷり暮れた」としても、「とっぷり」という物理音がそこに存在するはずもない。

それでもこの擬態語を用いることによって、音もなく雪が降り積もる情景、秋の日が暮れきったありさまがわたしたちの脳裏に「くっきりと」(これも擬態語ですね!)浮かんでくる。

このような効果はいかにして生まれるのだろう?
「しんしん」「とっぷり」という言語音が特定の「意味」を獲得するに至るメカニズムはどのようなものだろう?

というのがわたしの素朴な疑問である。

普通のことば、たとえば「いぬ」という言語音が「犬」の意味を獲得したメカニズムとはちがうような気がする。

「いぬ」ということばと「犬」という対象との結びつきは恣意的なもので、それぞれの言語集団における約束事にすぎない。
それが証拠に、英語では「DOG」と似ても似つかない言語音であらわされているではないか。
何ならこれから「犬」のことを「ねこ」と呼んでもいいですよ、みなさんが承認されるなら…。

というのが、オーソドックスな言語学の主張だ。

しかし、こと擬態語に関してはこの主張は通らないと思う。

「雪がにこにこ降り積もる」と言えるだろうか?
「秋の日がでっぷり暮れた」と言えるだろうか?

擬音語、擬声語とちがって、擬態語は自然界の物理音を模倣したものではない。
自然界からはまったく独立した純粋な言語音だ。

その純粋な言語音が特定の事態や状況を的確に表現できるという現象は、とても言語集団の約束事というなまやさしい関係ではない。

きっと意味と音声の間には秘められた本来的な結びつきが存在する…。
クラチュロスはまちがっていなかったのだ。

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