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2011年12月11日 (日)

オノマトペの正体(その4)

前回の終りのほうのセンテンスは語尾がみな「気がする」という印象表現で終わっていて、われながら気がひける。

つまり、たしかな根拠のない個人的な感覚の表現なのだ。

音感というとらえどころのない感覚。
それがある状況を指し示すことができるかもしれない、という直感。

言語音と意味との恣意的でない必然的な結びつきをつきとめられるかもしれないという予感。
しかし、その秘められた関係をうまく説明できないというもどかしさ。

それらがせめぎあった結果、「気がする」というあいまい表現の連発につながったのかもしれない。
そして、前々回の終りにお話しした秘儀的な「すりかえ」や暗黙の了解がこのあいまい領域に忍びこんでくる。

しかし、このあいまい領域に迷い込んだのは、どうやら私だけではなさそうだ。
プラトンの「クラチュロス」以来、言語音すなわち記号表現と意味すなわち記号内容との関係に「何かある!」と直感した人は少なくなかった。

「昼」と「夜」をあらわすフランス語について、ある詩人はその音と意味との不調和を嘆いたそうだ。
言語記号とその対象との関係は、恣意性というドライなことばだけではとても割り切れない。

「牛」のことを「うま」と言い、「馬」のことを「うし」と呼ぶ。
このくらいならまだいい。

「猫」のことを「いぬ」と言い、「犬」のことを「ねこ」と呼ぶ。
これは許されるだろうか?

このあたりになると、音感とその象徴性がたしかに影を差してくる。

野蛮人を意味する「バルバロイ」や「バーバリアン」の「B」を「M」に置き換えると、北方の蛮人が少しも怖い存在でなくなってしまう。

普通名詞でさえこうなのだ。
まして、オノマトペは近代言語学にとってまことに目ざわりな存在である。
これを認めてしまえば、その基本テーゼが揺るぎかねない。

だとすれば、オノマトペ花盛りの日本語は近代言語学にとって目の敵かもしれない。

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