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2011年12月31日 (土)

オノマトペの功罪

オノマトペが日本語で花盛りなわけ、西欧でオノマトペが貧弱なわけがこれで納得できる。

前々回はこんなフレーズで記事を締めくくった。

であるからして、日本語は表現力が豊かで他の言語よりもすぐれている…。
という結論にはならない。

さまざまな紆余曲折を経て、西欧諸語ではオノマトペが貧弱にならざるを得なかった。
このことはいかんともしがたい。

しかし、それによって西欧諸語が対象の本質に迫る言語表現への意欲を失ったわけでは決してない。

かれらはオノマトペという直接的手段を用いる代わりに、名詞や動詞や形容詞や副詞といったことばの世界の正会員たちを総動員して対象の本質に迫ろうとした。

この執念によって、かれらの言語表現に磨きがかかった。
語彙の増強、文法の緻密化、修辞学の発達…。

その結果、何よりも明晰な言語表現を尊ぶ価値観が生まれた。
公平に見て、この点日本語は西欧諸語に及ばない。

たしかにオノマトペは便利な道具である。
しかしそれは一種の方便にすぎない。

本当にドアは「バタンと」閉まるのか?

ドアの材質によって、閉めかたによってそのときに発生する物理音は大いに異なる。
それなのに、日本語話者はドアは「バタンと閉まる」ものという思い込みにとらわれている。、

「バタンと」というオノマトペを慣用化するうちに、対象を可能なかぎり明晰に表現しようという意欲と気迫を失ってしまったのだ。

要するに、この世の中いいことづくめはない、ということである。
オノマトペにも、功もあれば罪もある。

だから、日本語話者の中にも意識的にオノマトペの使用を控えている人もいる。

宮沢賢治はオノマトペの名人と言われているけれども、かれもオノマトペの持つ落とし穴を自覚していた。
意識的に「ずらし」の手法を用いたのも、そのためだと思う。

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