« オノマトペの弁明 | トップページ | オノマトペの正体(その2) »

2011年11月19日 (土)

オノマトペの正体

日本語の世界におけるオノマトペの位置について、前回は「片隅」ということばで表現した。

片隅ならまだいい。

ひょっとすると、境界線上かもしれない。
ことばと、ことば以外の何ものかとの…。

オノマトペとは本当にことばなのか、そうじゃないのか?
またしても、そんな素朴な疑問がよみがえってくる。

ことばじゃないとすれば何か?
言語音による物理音の模倣?

「かれはバタンとドアを閉めて出ていった」

たしかにこれなら、物理音を言語音によって近似的に模倣したことになる。
これをことばと言うかどうかは、言語の定義次第である。
だから、擬音語、擬声語についてはある意味話は単純だ。

しかし、「部屋が片付いてすっきりしました」はどうか?
「すっきり」という物理音など、どこからも聞こえてこない。
だから、物理音の模倣でないことは明らかだ。
だとすれば、この「すっきり」は一体何だろう?

擬音語、擬声語とちがって、擬態語は物理音に対応していない。
ある状況や心象を言語音で表現するものだ。

それでもわたしたちの言語表現の中で一定の役割を果たしている以上、言語記号として位置づけるほかあるまい。

しからば、この言語記号はどのような記号内容に対応しているのか?
こう問い詰められると、うまく答えることができない。

あるいは、「とっぷり」や「めっきり」や「ぐったり」という言語記号がどのようなメカニズムで特定の状況や心象と結合したのか?
あらためて考えるとわからない。

また、記号としての恣意性は保証されているのか?
たとえば、「すっきり」を「ねっちょり」で代替することは可能なのか?
「部屋が片付いてねっちょりしました」と言えるだろうか?

これまた、頭を抱えざるを得ない。

ことばの慣用原理主義者なら慣用が確立すればこのような表現も可能と言い張るかもしれないが、旗色は悪い。
人が感じる語感や音感を無視することはできないと思う。

こうしてあれこれ考えてくると、擬態語の位置づけは簡単にはいかない。
えらい言語学者でも、話がオノマトペに及ぶととたんに歯切れが悪くなるのもわかるような気がする。

日本語はオノマトペが豊富、というのは常識である。

しかし話をそこで終わらせては面白くない。
ではなぜ日本語にはオノマトペという面妖なしろものがかくも豊かなのか、という問題を他の言語圏との比較の中で掘り下げてほしい。

日本語の本質を明らかにするためにも…。

|

« オノマトペの弁明 | トップページ | オノマトペの正体(その2) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« オノマトペの弁明 | トップページ | オノマトペの正体(その2) »