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2011年11月 4日 (金)

オノマトペの芸術性

オノマトペは本当にことばなのか、そうじゃないのか?

あんなのは、言語音による物理音の模倣に過ぎない。
あるいは、未分化の心象を言語音に投影したものに過ぎない。

そんなことを言って、オノマトペに冷たい視線を向ける人もいる。

私自身は、ことばに関してそこまで厳格な規範意識を持ち合わせていない。
だから、若干釈然としない気持ちを引きずりつつも、わりに自然にオノマトペを受け入れている。

たぶん、日本語話者の多くはそうだと思う。

かりにオノマトペが言語以前のしろものだとしても、それでわたしたちの表現が豊かになるのであればかまわない…。
そんなふうに思っている。

わたしたちの言語活動は一見自由のようでいて、実は伝統や規範という重圧のもとで行われている。
だから、私には紀州山中で発見した未知の動物を「ろも」と名付けることができない。

その点、オノマトペはわたしたちの言語活動における貴重な解放区である。

そこは、自然界に対して扉が開かれている。
明るい光が差し込み、自由の風が吹きわたり、見たこともない不思議な生き物がやってくる。

だから、解放区ではアートが生まれる。
つまり、オノマトペは何ものにも縛られない自由な芸術のゆりかごなのだ。

名詞や動詞や形容詞にとっては、これが気に入らない。
そんなふうに勝手気ままをされたら、ことばの世界の秩序と調和はどうなるのだ!

しかし、それがアーチストの宿命というもの。
古今東西、芸術家は社会から「うさんくさいやつ」という目で見られてきた。

かれらがエスタブリッシュメントの冷たい視線を浴びながらも黙々と創造的営為を続けてくれたからこそ、今日わたしたちは豊かな芸術の秋を享受することができる。

さいわい日本語は自然界に親近性が高く、オノマトペにやさしい。
西欧諸語の世界で迫害されてきたオノマトペも、日本語の世界に迎えられてようやく安住の地を得た心境かもしれない。

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