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2011年10月29日 (土)

オノマトペの悲哀

オノマトペは、ふつう擬音語、擬声語、擬態語などと訳されている。
だから、「ことば」としての待遇を受けていることはたしかだ。

しかし、ことばの世界の正会員つまり名詞や動詞や形容詞の面々からは、うさんくさい奴という目で見られている。

「宮澤さんのような著名な文学者の強力な後押しがあったからしぶしぶ入会を認めてやったのだ。」
そんな声が聞こえてこないこともない。

まるで無から有が生まれるように、語り手によって新たなオノマトペが生まれるのはわたしたちの言語活動にとってひとつの栄光だ。

前回はそんなお話しをしたけれど、宮澤賢治だってまったくの無からオノマトペを生み出したのではない。

わたしたちもよく使っている既存の慣習的なオノマトペを変形したり、音を変換したり入れ替えたり。
そんな手を使っていることが多い。

結局、命は命からしか生まれないようにことばもことばからしか生まれない。
少なくとも、アダムより後の人間にとっては…。

ことばの記号性という点でもやや難がある。

記号表現ははっきりしているとしても、それが指し示す記号内容はいたって漠然としている。
たとえば、

「朝夕めっきり冷えてきました」
「帰り着いたころには、秋の日もとっぷり暮れ…」

における「めっきり」や「とっぷり」が指し示す記号内容は何か、と問われるとうまく答えられない。
その語感から感じ取ってください、というしかない。

「そんなことでことばとしての役目が果たせるとでも思っているのかね?」
またしてもそんな声が聞こえてくる。

オノマトペは「ことば」の世界に迎え入れられたものの、今ではかえって肩身の狭い思いをしているかもしれない。

悲哀をかこっている(かも知れない)オノマトペには、この際開き直ることを勧めたい。

世の中にはあまのじゃくがいるもので、記号性のあいまいなところがかえっていいという人もいるのだ。

「めっきり…」

だれかの口から発せられたそんな記号表現が、それをしっかり受け止めてくれる記号内容がなかなか見つからずにいつまでも虚空をさまよっている。
そんな漂流感覚がオノマトペにはある。

それが、規範でがんじがらめにされた窮屈なことばの世界でほっとできる貴重な解放区になる。
そんなふうにオノマトペをたたえる人もいる。

オノマトペのみなさん、いじけることはありません!
なべて存在するものには何がしか取りえがあるものです。

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