« 命名のスタイル(その5) | トップページ | オノマトペの悲哀 »

2011年10月22日 (土)

オノマトペの栄光

アダムは記号表現と記号内容を自由に結びつけることができた。
しかし、現代に生きるわたしたちにはせいぜい記号内容をこつこつ記述することしか許されていない。

というのが、前々回の私の嘆きだった。

私には、紀州山中で発見した動物に「ろも」と名付ける自由はない。

「キシュウオオカミモドキ」。
そのように、対象の記号内容を既存の語彙つまり出来あいのことばを組み合わせて記述することしかできない。
無数に生まれる新語造語のたぐいも、しょせん既存の語彙の組み合わせまたは変形でしかない。

しかし、そのように断言してしまっていいものかどうか?
多少ためらいがある。

それというのも、この世界にはオノマトペというものがあるからだ。

「たくさんの白いきのこが、どってこどってこどってこと、変な楽隊をやってゐました…」
「クラムポンはかぷかぷわらったよ」

もしわたしたちがまったく新しい「ことば」を世に送り出すことができるとすれば、それはオノマトペしかない。
そして、オノマトペなら宮澤賢治だけでなくわたしたちだって生み出すことができる。

私が勝手に「3千円札」を刷って使おうとしてもそれは世間が許さない。
しかし、オノマトペならそれができる。

ことばの世界では、オノマトペという新しいお札を自分で刷ってむりやり通用させることができる。

オノマトペを生み出し使いこなすことは、わたしたちの不自由な言語活動の中で数少ない栄光のひとつである。

とりわけ日本語は豊かなオノマトペに恵まれている(と言われている)。

しからば、なぜ欧米諸語に比べて日本語はオノマトペが豊かなのか?

開音節言語、モーラ言語である日本語にはオノマトペが調和しやすいという音声的、音韻的な理由もあるだろうけれど、それだけじゃないと私は思っている。

前回お話ししたように、日本語話者はことばは空気と同じようなものだと考えている。
つまり、人とことばと自然界との間に垣根がないのだ。

だから、自然界の物理音が自由にことばの世界に入ってくる。
オノマトペとして、日本語の中でりっぱに席を占めることができる。

しかし、欧米諸語はそうじゃない。
人とことばと自然はたがいに峻別されている。

人はことばを外部の対象として客観的に見つめざるを得ない。
自覚的、意識的な態度を取らざるを得ない。

そして、人と自然は隔たることさらに大である。

その結果として、ことばはかくあるべしという規範意識が発達する。
それが、自然界からオノマトペがほしいままに参入するのを拒んでいる…。

というのがいま私の思いついたあやしげな仮説だけれど、的外れだろうか?

|

« 命名のスタイル(その5) | トップページ | オノマトペの悲哀 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 命名のスタイル(その5) | トップページ | オノマトペの悲哀 »