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2011年10月15日 (土)

命名のスタイル(その5)

神さまはどのようなことばで世界を創造し、アダムは何語で動物たちを名付けていったのだろう?

前回は余談として、そんな疑問をもらしてみた。

その時は「答えが見つかる問題ではないが、想像してみるのは楽しい」と余談をしめくくったのだけれど、驚いたことに先週読んだエーコの『バウドリーノ』にその答えが出ていた。

神さまがアダムに語りかけた原初のことばはどんなものだったのか?

という問題をめぐって、主人公バウドリーノとその仲間、それに高名なラビ・ソロモンが問答をする中でそれは出てくる。

そこで示された答えが正しいかどうか保証はできないけれど、私と同じような疑問をお持ちの方にはぜひご一読をおすすめしたい。

こんな詮ない疑問を持つのは私だけなのか…とやや心細い思いをしていたのだけれど、中世ヨーロッパの学士たちも同じ疑問を抱いていたことを知るに及んで、大いに意を強くした次第である。

そもそも…と居ずまいを正して言うほどのことではないが、日本語圏に比べてヨーロッパ文明圏ではことばそのものに対する関心がはるかに高いような気がする。

ギリシャ・ローマ神話でもことばが人々にもたらされたいきさつが語られているし、聖書はそもそも「はじめにことばがあった」と宣言している。

むかしは神さまがアダムに与えた神聖言語でもって、世界中の人々がコミュニケーションをとることができた。
しかるに、バベルの塔の事件このかたそれが不可能になってしまった…。

きっとヨーロッパの人々にはバベルの一件がトラウマになっているのだ。
ことばというものについて、いやでも自覚的にならざるを得ない。

バベル以前の神聖共通言語はどんなものだったか、いまの世にそれを再現することはできないだろうか…。

エーコの『完全言語の探求』を読むと、ヨーロッパの人々が2千年にわたって涙ぐましい努力と情熱を傾けてきたことがよくわかる。
言語学がヨーロッパの真ん中あたりで発達したことにも納得がいく。

それにひきかえ…。

古事記にしろ日本書紀にしろことばの起源についてはまるで言及していない。
ことばというものに対して、むしろ冷淡ともいえる態度なのだ。

ことばは空気と同じようにあって当たり前、何をあらためて論じたてる必要があろう?
そんな姿勢を感じる。

ユーラシア大陸の東と西では、ことばへの接し方もまことに対照的だ。

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