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2011年9月18日 (日)

命名のスタイル

アダムがかれの前に連れてこられたけものや鳥たちに次々名前をつけていったように、わたしたちは愛するものであれ害をなすものであれ、目の前に存在するものに名前をつけずにはいられない。

ただし、その名付けのあり方は言語圏によってずいぶん異なる。

前回、アメリカではハリケーンのようなおそろしい存在にさえ名付けをする、それも人の名、可憐な女の子の名をつける、というお話をした。

たとえば「カトリーナ」という名前をもつ女の子は、ハリケーンに同じ名をつけられて何とも思わないのだろうか?
日本語話者としては、理解に苦しむ。

日本の人々は、台風ごときに人格を認めない。
全部、通し番号で処理してしまう。

大きな被害をもたらしたためどうしても個別に言及しなければならない場合にかぎって、しぶしぶ名前をつける。
それでも、人の名をつけるなどあり得ない。
室戸台風、枕崎台風など土地にちなんだ非人格的な命名をする。

欧米では人の名、日本では土地の名…。

この対照はこれまで話題にのぼった軍艦の命名にも当てはまる。

フランスの航空母艦は「シャルル・ドゴール」、アメリカのそれは「カール・ビンソン」。

でも、日本はちがう。
連合艦隊の旗艦は「三笠」だったし、帝国海軍の巡洋艦は「榛名」である。
海上自衛隊のミサイル護衛艦も「ちょうかい」であり「きりしま」である。
みな地名から取っている。

おぼえておられるだろうか?
少し前に人と土地はキャッチボールのように名前をやり取りする、というお話をした。

土地の名にちなんで人は名乗りをあげ、その人の名を新たな土地の名付けに用いる。
それをくりかえす。

そのように人の名と土地の名は相互依存的関係にあるのだけれど、さまざまな対象への命名に当たって欧米では人の名がより好まれ、日本では土地の名が選ばれる。

この違いは何に由来するのだろう?

それは多分、社会における人間存在のあり方、人に対する認識のあり方が言語圏によって違うからだと思う。

だとすれば、存在や認識のあり方の違いが言語活動に反映したのか?
それとも、言語の違いが存在や認識のあり方を規定したのか?

かくして問題はますます混迷の度を深めてゆく。

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