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2011年8月 7日 (日)

草の名

まだ梅雨明け前の蒸し暑い午後のひととき、廃園の草むしりをした。

この季節の旺盛な生命力には本当にてこずる。
ついこの間抜いたばかりなのに、もう庭じゅうひざあたりまで雑草が密生している。

その草むらにもぐりこんで、汗だくになりながら除草をする。

私は植物にはうといので、いま抜きつつあるこの草の名前は知らない。

植物分類学は精緻な体系だから、日本のふつうの場所に生えている草なら無名ということはありえない。
ひとつひとつ、しかるべき学名があり和名もあるはずである。

よく見ると可憐な花をつけている草もある。
いずれ「名のある」草本植物なのだろう。

でもその「名」は私にとってとりあえず必要がないので、おかまいなしに引っこ抜いてしまう。

いまの私にとって、あの草もこの草もみな「雑草」である。
その「雑草」をさらに区別する名前はない。必要がない。

庭の隅っこでぼってりと咲いている大ぶりの花が目に入る。

いくら私でもあれくらいはわかる。
「あじさい」だ。

この廃園に生い茂る多くの植物の中から、私は「あじさい」を区別して認識している。
しかし、私の認識もその先へは進まない。
青いのも白いのも、大きいのも小さいのもみな「あじさい」である。

紫陽花の一輪一輪に「名」をつけて区別している人はいるだろうか?
この白いあじさいには「小夜子」、そのとなりの青みがかったのには「駒子」、あっちの大輪の花には「美咲」…。

よほど花好きの人にはいるかもしれない。
「駒子ちゃん、おはよう!今朝の青さは一段とあざやかねえ」
「小夜子ちゃん、ゆうべはよく降ったわねえ、大丈夫?」

そういえば、金子みすずさんも歌っていた。
「それはわたしがつけたのよ、すきな草にはすきな名を。」(「草の名」)

草むしりを終えてシャワーで汗を流していると、ふと「認識の解像度」なんてことばが浮かんでくる。

認識の解像度は人により対象によって異なる。

廃園に生い茂る草のすべてを「雑草」で片づけてしまう人もいれば、あじさいの一輪一輪に人格、いや花格を認めて名を付け話しかけている人もいる。

もちろん認識の解像度は言語圏によっても異なる。
「湯」と「水」を区別して認識する言語圏もあれば、「湯」を「熱い水」と認識する言語圏もある。

シャワーを浴びながら、世界認識の形式とその解像の度合いはすべて言語によって支えられていることをしみじみと感じる。

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