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2011年7月18日 (月)

神さまの名前

日本の神さまには、それぞれ名前がある。
アマテラス、スサノオ、オオクニヌシ…。

仏さまにも、それぞれ名前がある。
阿弥陀仏、大日如来、文殊菩薩…。

だれがその名をつけたのかは分からない。
少なくとも人間でないことだけはたしかである。
神さまに対して命名するなど、そんなおそれ多いことが人間にできるはずがない。

ともあれ、多神教の世界では多くの神さまを区別する必要があるから、人間と同じように名前がある。

問題は、ユダヤ教、キリスト教、イスラムのような一神教の場合である。

一神教の世界では神さまは一人(と言っていいのかな?)だから、区別する必要がない。
唯一絶対の存在だから、名前がなくてもかまわない。

一神教の神さまには名前があるのかないのか、本当のところどうなのだろう?

神さまはモーゼに「わしの名は、在リテ在ルモノ、というのじゃ」とわけのわからない言い方で答えている(出エジプト記3.14)。

しかし、このことばは神さまが自分の本当の名を明かした、というよりもモーゼの問いをはぐらかした、煙に巻いたと解釈するのが穏当というものだろう。

「そんなこと、お前たちは知る必要がない!」というのが、このフレーズの本意だ。

何といっても名は体をあらわすのだから、人間ごときにしっぽをつかまれてたまるか。
神さまとしては、そう考えたのだと思う。

キリスト教の神さまをあらわす神聖4文字には母音がない。
だから、音声化することができない。
つまり、人が神さまを呼ぶことは原理的にも不可能なのだ。

唯一絶対の存在に、人間と同じような名前など必要ない。
というのは、これはこれでなかなか筋の通った考え方である。

それでも、「無名」という事態にやはり人は困惑をおぼえる。
日本でも、名前のない人間は「名なしの権兵衛」といってさげすまれる。

だから、どうしても神さまの名を口にしたい人々が勝手に母音をくっつけて音声化した。
それで、「エホバ」とか「ヤハウェ」とかの名が世間に流布するようになった。

名前があろうがなかろうが、聖書の記述でも神父さんの説教でも神さまに言及する必要はある。
そんな時はどうすればいいのだろう?

たとえば、新共同訳の聖書では「主」という語が用いられている。
「父」という語も神さまをあらわす。

「主」や「父」は神さまをあらわしているのだけれど、では、これらの語は「名前」なのかそうではないのか?
もし名前でないとすれば、ただの符牒なのか?
符牒でもって神さまをあらわすなど、無礼千万の行いではないのか…。
考えはじめるときりがない。

唯一絶対の神さまに名前があるのかないのか、という疑問はいくぶん神学的な色彩を帯びている。

しかし、神学を離れて言語そのものの問題として考えてみるのも興味深い。

言語にとって「名前」とは何か?
「名前」とは言語そのものなのか?

という問題である。

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