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2011年7月 4日 (月)

「呼びかけ」の本義(その3)

「呼ぶ」にしろ「CALL」にしろ、その原義の中には権力意思が内在している。
だから、下の者は上の人を気安く呼んではいけない。

人間同士でもこうなのだから、人が神さまを「呼ぶ」などもってのほかである。
十戒も「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」と諭している(出エジプト記20:7)。

逆に神さまが人間を「呼ぶ」のは一向かまわない。
何といっても神さまは圧倒的にえらいのだ。
だから、神さまは人々に次のように呼びかける。

「わたしは主、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神である。」(イザヤ書45:3b)
「わたしはあなたの名を呼んだ。あなたが知らなくても、わたしはあなたに名を与えた。」(イザヤ書45:4)

このくだりでは、命名という決定的な力も作用している。

つまり、神さまは人々を呼ぶけれどもその逆は決して許されないのだ。

そうはいってもわたしたちは煩悩を抱えた無力な存在だから、神さまにおすがりしたい、神さまに少しでも近づきたいと願うのが人情というものだ。

それなのに、神さまに呼びかけてはいけないと言われると途方に暮れる。

さあ、どうしよう?

そこで、ここだけの話だけれどいい方法をそっとお教えしよう。

「呼ぶ」という動詞を使わなければいいのだ。
かわりに、「ねんじる」あるいは「たたえる」、「となえる」という動詞を使えばいい。

「念じる」や「称える」や「唱える」には、「呼ぶ」に内在するような権力意思はこれっぽちもない。
み仏や神さまの名を「念じ」、「称え」ればいいのだ。

だから、「念仏」や「称名」は大いに推奨される。
「南無阿弥陀仏」と称えるだけで、お浄土に行くことができる。
ありがたいことである。

別に仏教だけに限ったことではない。
キリスト教のお祈りでも「イエス・キリストの御名により」という文句が出てくる。

テンプル騎士団にも、12使徒の名を繰り返し称えるという行があった。
厳密にいえば使徒は神さまじゃないけれど、神さまの親戚みたいなものだからその名は称える価値があるということなのだろう。

神さまを呼ぶのはだめだけれど、念じたり称えたりするのはむしろいいことである。
世の中、どこかに抜け道はあるものだ。

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