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2011年3月 7日 (月)

「名」の形式

「卑弥呼」というのは、姓とも名ともつかない短い素朴な名前である。
前回はその名の性質について考えながら、弥生時代のコミュニケーションに思いをはせてみた。

その後日本人の名前も進化して、現在では姓と名の二名法がほぼ確立している。

余談であるが、日本語の「名前」ということばはちょっとまぎらわしい。
「山本太郎」というフルネームを指す場合もあれば、「太郎」という個人名を指すだけの場合もある。

はっきりさせたい時は、わざわざ「上の名」、「下の名」と言わなければならない。
このあたり、他の言語ではどうなっているのだろう?

英語の「NAME」は、「FAMILY NAME」と「GIVEN NAME」の上位概念と位置付けることができる。

日本語の「名前」は、ここらへんがあいまいだ。
「名前」という語はとても重要なことばであるだけに、その違いが興味深い。

はじめにもどって、今日の日本では二名法がほぼ確立しているけれども、私の子どものころはまだ三名法の人が実在した。

私の小学校のころの担任に「上野五郎左衛門信夫」という人がいた。
読みは「うえのごろうざえもんしのぶ」。
聞くからに風格のあるお名前である。
今もご存命だろうか?

NHKのドラマ「坂の上の雲」のなかで、正岡子規は秋山真之のことを「淳さん、淳さん」と呼んでいた。
子ども時代は「淳五郎」と名乗っていたからだ。

だから「淳五郎」は幼名、と解釈する向きもあるけれど、老いた母は成人した兄弟に向かっても「信さん、淳さん」と呼んでいる。

つまり、長じてからも「淳五郎」の名は維持されていて、私はかれの正式の名が上野さんと同じく「秋山淳五郎真之」だったのだと思う。

時代が下って今は姓と名の二名法が一般的だが、このような名の形式はかえって少ないのかもしれない。

ピカソほどではないにせよ、西洋ではミドルネームやそれ以上の名を持つ人は少なくない。
わたしたちは二名法が当たり前と思っているから、こうした名を見るとどこまでが姓でどこからが名なのか、とつい考えてしまう。

かと思えば、モンゴルのように姓と名の区別がない形式もある。

土地の名とちがって、人の名は本当に多様でつかみがたい。
つかみどころがなく、一筋縄ではいかない。
そして、面妖である。

まことに「名」は(人間というものの)「体」をあらわしている。

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