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2011年3月14日 (月)

「名」の生態

人の「名」は落ち着きがなく面妖である、というのが前回の結論だった。

ここが、不動のキャッチャーのように安定感のある地名とちがうところである。
人間存在そのものが落ち着かず面妖なのだから、これはいたしかたがない。

このことは名前について考えるときにしみじみ痛感することなので、もういちど繰り返しておきたい。

人は本当の名を秘す。
これはどの言語圏にも共通して見られる現象だ。

自分の名は、自分の分身あるいは自分そのもの。
それだけ重いものだから、他人や魔性のものにそれを知られることは自分の首根っこを押さえられることである。
うかつに開示することはできない。

ピエモンテ地方のことわざにも、「名の名とするはまことの名にあらず」というのがあるそうだ。

前回、英語の「NAME」が登場したけれど、この語の動詞形には「身元をつきとめる」、「告訴する」という意味もある。
これだから「名」はおそろしい。

オデュッセウスは一目巨人に名を聞かれた時、「私の名は『誰でもない』というのだ」と答えた。
知恵者オデュッセウスは、これで窮地を脱することができた。

古代、筑波山の歌垣では男も女も見染めた相手の名を聞き出すことが何よりの大仕事だった。
名を明かすことは心を許した証拠なのだ。

人は適当に名をつける。
その名をころころ変える。
本当の名のほか、いくつも名前を持つ。

この点については、二通りの解釈ができる。

ひとつは上と同様に、他人や魔性のものの目をあざむくことによって「自分」を守るという戦略。
もうひとつは、名を変えることによって自分を変える、という戦略。

一方はそれを秘すことで「自分」を守り、もう一方はそれを変えることによって「自分」を変える。
いずれも、名は自分そのものという意識がある。

それにしても、むかしの人はよく改名したけれどもそれを世間に周知させるのに苦労はなかったのだろうか?
というのが、私の素朴な疑問である。

秀吉や木戸孝允はどのように改名のお知らせをしたのだろう?

「拙者儀御一新ノ折柄表記ノ通改名致候此段御了知被下度候…」とでも各方面に案内したのだろうか?
そんな資料が残っているなら、拝見したいものだ。

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