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2011年3月21日 (月)

「わたし」の誕生

土地の名に比べて、人の名はまことに面妖な生態を示す。

というのが、前回のみならずここしばらく繰り返しお話ししてきたことだった。

ではなぜ、人の名はそんなにややこしいのか?

それは、人間存在そのものがややこしいものだから。
というのがこれまでの答えだったけれど、これじゃあいくら何でもまともな答えになっていませんね。

もう少しまじめに考えてみたい。

テレビで海の生きものをテーマにした番組を見ることがある。

イワシのような小魚が何千何万と群れをなして泳いでいる。
クジラやサメに遭遇して逃げるときは一斉に向きを変えて全速で泳ぎ去る。
そのさまは、まるで群れそのものがひとつの大きな生きもののようだ。

人間だってきっとむかしはそうだったのだ。
「ムレ」という形式で存在していた。
「個人」という存在形式はありえなかった。

しかし、濃厚な塩化ナトリウムの溶液から塩の結晶が析出してくるように、「ムレ」の集合的意識の中からいつしか「わたし」の意識が析出してくる。

「わたし」が生まれることは、「あなた」や「かれ」が生まれることでもある。
そうなると、ひとりひとりを個体識別しなければならなくなる。

こうして「個人」が成立し、個体識別用の標識つまりひとりひとりの「名」が生まれる。

「わたしだけの名」を持つことは、「個人」として認められることだからうれしいといえばうれしいことである。

しかし人類はその歴史の99%をムレの形式で存在してきたのだ。
ムレから自立した「個人」という存在形式にはいまだにどこか慣れていないところがある。

人が自立して生きるのはまことにりっっぱなことである。
そのとき、人は誇らしさを感じることもあろう。

しかし、人が「個人」のかたちで存在し続けるのも、存外しんどいことである。
そして「個人」であることを強いる「名」を、人はときに重くうっとうしく感じる。

だから、人と「名」の関係は一筋縄ではいかない。
複雑で微妙なのだ。

という結論は、われながらこじつけに過ぎるかもしれない。

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