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2011年1月 3日 (月)

土地の名 人の名(その5)

お正月早々、またしても前言撤回をしなければいけない。

むかしは人の名前は土地の名前に比べてずいぶん軽かった。
名前は自分のアイデンティティのよりどころという意識もなかった。
だから、気軽にころころ名前を変えた。

少し前、そんなお話をしたことがあった。

でも、よくよく考えてみるとこれは言いすぎだった。

台湾や東南アジアでは、おたがいに本名でなくニックネームで呼び合う、ということが広く行われている。
その背後には、本名を名指しすることを避ける意識がある。

それどころか、むかしの部族社会では本名は秘してみだりに他人には明かさないという風もあったらしい。

貴人に対してあからさまに名を呼ぶ、というのはタブーである。
という意識は洋の東西を問わず、どこにでもあった。

現代の日本だって、上司の村上部長に面と向かって「村上さん」とはなんとなく言いにくい。
「部長、例の件は…」と職名で代用する。

かれこれのことを考え合わせると、やはりむかしから名前はその人のアイデンティティとわかちがたく結びついていたというほうが至当かもしれない。

名前は単なる符牒でなく、私の分身、私の本性、あるいは私そのもの。
だから、名前を知られその名で呼ばれることは自分の存在の首根っこを他人におさえられることなのだ。

そう思えば、村上部長に対して「村上さん」と呼びにくい理由もわかる。
部下である私が上司の首根っこを押さえつけるわけにはいかない。

また、生まれた子供にわざと汚い名前をつける風習が少し前まであった。
そうすることによって、魔性のものの手が大切なわが子に及ぶのを避ける意味合いがあった。

信長が自分の息子にへんな名前をつけたのも、同じような意識があったのかもしれない。
(もっとも信長は徹底した合理主義者だったから、単に名付けが面倒だっただけかもしれないが…)

むかしの人がひんぱんに名前を変えたのも、伊達や酔狂でなく他人や魔性のものの目先をそらすための撹乱戦法だったのかもしれない。

名は人を特定するための固有名詞だから、それが秘密にされたりすぐ変わるようでは固有名詞の機能が果たせない。

しかし人は、その機能を犠牲にしてでも守らなくてはならないのものがある。
「私」が他人や魔性によって特定されてしまえば、きっとよくないことが起こる。
むかしの人はそう考えたのだ。

しかし時は流れ、今の日本では人々の本当の名は白日のもとにさらされている。
それで平気である。

個人がもっとも尊ばれる時代を迎え、その個人をあらわす名は秘すべきものから積極的にアピールするものへと変貌したのだ。

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