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2011年1月10日 (月)

土地の名 人の名(その6)

なぜむかしの人はころころ名を変えたのか?
前回はそのわけを考えてみた。

ひんぱんに名を変えるだけでなく、むかしは本名のほかに複数の別名を持つことも珍しくなかった。

「孔子、諱は丘、字は仲尼」なんて学校の漢文の時間に習った。
死んでからも、たくさんの封号が贈られた。

人が名を変えるのは、魔性のものの目をそらすための撹乱戦法だった。
でも、別名はちょっとちがう。
いくぶん風流に遊ぶ味わいがある。

今でも作家はペンネームを持つし、タレントさんは芸名を持つ。
お相撲さんはしこ名を持つし、ホステスさんは源氏名を持つ。

これらは職業上の必要から来る別名だけれど、少し前まではごくふつうの人も号を持っていた。

私のおじいさんは俳句をひねるとき、「萬緑」と号した。
ひいじいさんは漢詩を詠むとき、「台水」と号した。

号を名乗るとき、人はちょっぴり変身気分を味わうことができるのかもしれない。
本名は自分ではつけられないけれど、号は自分にもっともふさわしい名を自分で考えるものだ。
その点では、アイデンティティはむしろ号のほうにあらわれるのかもしれない。

安井算哲も自分で考案した「渋川春海」という別名のほうが気に入っていたらしい気配がある。
これは、最近読んだ冲方丁さんの『天地明察』の受け売り。

ともあれ、今では芸事をたしなむ人を除いては号を名乗る人はめっきり減った。
多くの人は本名ひとつきりである。
せいぜい死んでから戒名をもらうくらいである。

かくいう私も本名のほか、号も別名も持っていない。
と言いかけて、よく考えてみれば私だってネット上では「しおかぜ」というハンドルネームを使っていることに気がついた。

これって、現代における「号」?

ハンドルネームはネット上で匿名性を維持しながら自己同一性をアピールするものだ。
号と似ているけれども、何だかちょっとちがうような気もする。

今わたしたちはたったひとつの本名で管理されている。
その名を秘すことは許されないし、名を変えることも容易ではない。
そんな窮屈な社会に生きている。

せめて、ささやかな号なりハンドルネームなりを名乗って風流の世界に遊びたい。

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