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2010年12月13日 (月)

土地の名 人の名(その2)

むかしは人よりも土地のほうがえらかった。
だから、人々は土地の名前を大切にし人の名前も土地にあやかってつけたりした。

考えてみれば人が土地を養うのではなく土地が人を養うのだから、そんな感覚も当然だったかもしれない。
土地に対する執着は、いまとは比べものにならないほど強かった。

だから、地名の詮索は自分たちのルーツをたしかめる意味合いもあった。

自然、土地の名前に比べ人の名前は軽かった。

生まれた子供には実に適当に名前をつけた。
信長は自分の息子に「奇妙」や「茶筅」という幼名をつけたそうだ。ひどいものである。

それに、生まれてからも服を着替えるように気軽に名前を変えた。
今なら、「桂小五郎」を「木戸孝允」に改名したいと役所に申請しても果たして認められるかどうか?
戸籍法を読むかぎり、桂さんの改名はむずかしそうだ。

つまり、むかしの人にとっては名前など単なる添えもの、ただの符牒にすぎなかった。

今とちがって、個人のアイデンティティとはさほど結びついていなかった。
いや、そもそも「個人」や「アイデンティティ」という観念がなかった。

人は「どこそこ村の何兵衛さん」で十分だった。
戦場では、「われは武蔵の国比企の住人、比企能員なるぞ!」と名乗りを上げた。

土地とのつながりを表明すれば、その人となりが明らかになった。

ヘロドトスの『歴史』は「本書はハリカルナッソス出身のヘロドトスが、うんぬん」という名乗りで始まっている。
ツキュディデスの『戦史』も「アテナイ人ツキュディデスは、うんぬん」という名乗りで始まっている。

そんな時代だった。

何しろ土地のほうがえらいのだから、人の名だけでは自立できない。
土地の名に支えてもらう必要があった。

しかし時は流れ、今や土地の名と人の名の関係は逆転した。

わたしたちは日ごろ地名などただの符牒のように軽く扱っている。
これに対して、人名は人のアイデンティティのよりどころでありかけがえのない個人情報になった。
ころころ変えるなど、とんでもないことである。

自分の名前は大切に守り、人に軽んじられないようにしなければならない。
人の名前も大切に扱い、万にひとつも間違えてはならない。

人が、それも生身の個人がすべての頂点に立つ時代がやってきた。
個人が何よりも尊ばれるのは慶賀すべきことだけれども、それはそれで窮屈でありしんどい時代でもある。

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