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2010年12月 6日 (月)

土地の名 人の名

人がいて、街がある。
街のはずれには田畑が広がり、そのかなたには山なみが連なっている。
山々からは川が流れ下って田畑をうるおし、はるか遠くの海にそそぎこむ。

ありふれた日本の風景である。

その山や川、町や村のすべてに「名前」がついている!
そして、木々にも人知れず咲く小さな草花にも…。

というのが小海線に揺られながらの小さな驚きだった。

人間はことばによって世界に秩序を与え、そして認識する。
見聞きするものすべてに「名」を与え、そうすることでようやく心が安らぐ。

という、当たり前のことをいまさらのようにしみじみ感じる。

そう思えば、地名が単なる符牒にとどまらない理由もよくわかる。

地名の由来をこつこつ研究している郷土史家は多い。
奈良時代の風土記も、あの山この川の名の由来を土地の古老にしつこく訊ねている。

前回話題にのぼった『失われた時を求めて』のなかでも、さる物知りが貴婦人のサロンでフランス各地の地名の由来についてえんえんと蘊蓄をかたむける場面が出てくる。

地名に関心を寄せるのは古今東西を問わない。

地名の秘密は自分のルーツとどこかつながっている…。
そう直感するからかもしれない。

それにひきかえ、肝心の人の名前に対する関心は意外に薄い。
えらい人はともかく、ふつうの人間の名付けに関してはけっこう適当なのだ。

日吉丸が最後には豊臣秀吉になり幕末の「桂小五郎」が維新後「木戸孝允」になったように、むかしの人はころころ名前を変えた。

女の人になると、ろくに名前さえなかった。
たとえば、韓国の古い族譜では女性はただ「女」と記されていることも多いという。

カエサルのお母さんは「アウレリア」という名前だったそうだが、アウレリウス一門の女性はみな「アウレリア」なのだ。
そのカエサルの娘は「ユリア」。
ユリウス一門の女性だからこうなる。

とても今の感覚では、名前とは言えない。
名前というより間に合わせの符牒に近い。
今のように、名前は自分のアイデンティティのよりどころという意識はなかった。

それでも、特段不都合はなかった。
むかしは人を個人としてではなく、むれ(たとえば村や家門など)単位で把握し認識していたからかもしれない。

武蔵の国比企の里から興った一族の長だから比企能員を名乗る。
相模の国三浦の里から興った一族なら三浦氏を名乗る。
リヨンの東、クレミューの町に生まれたからクレミュー姓を名乗る。

洋の東西を問わず、むかしは人の名よりも土地の名のほうが優先したのだ。

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