« 地名と意味(その2) | トップページ | 地名と意味(その4) »

2010年11月 7日 (日)

地名と意味(その3)

地名はただの符牒、音声だけがあり意味を持たない記号である。
毎日のようにJR神戸線「須磨」駅を通過しながら、どうしてこのことに気付かなかったのか?

苦い反省の味とともに記したのが前回の記事だった。

「すま」という音声には対応する日本語の語彙がない。
つまり意味がない。

「須磨」と漢字表記をしてみても、そこから格別意味を見出すことはできない。
この場合、漢字は「留萌」や「喜茂別」と同じく表音文字としてしか機能していない。

それなのにふつうのことばと同じように、この地名に何となく意味があるように錯覚したのはなぜか?

それは、「すま」という音声記号が私が体験した「海水浴客でにぎわうビーチ」というイメージと結びついているからだ。
それに、「淡路島 かよう千鳥の鳴く声に 幾夜ねざめぬ 須磨の関守」という古歌や源氏物語の「須磨」の帖にも連想が及ぶ。

私の個人的なイメージや連想が、意味のないところに意味を注ぎ込んでいく…。

かくして「須磨」はあたかも「意味」をもったことばであるかのように感知されるようになる。
そして私はその錯覚に安住してしまう。

ただし、その地名の「意味」は漢字の表意機能からではなく私の個人的体験から生まれたものだ。
だから北海道で生まれ育った人にとっては、「須磨」は依然として意味を持たない符牒にとどまる。

同じような事情は、前回例としてとりあげた北海道の地名にもあてはまる。

私にとって、「音威子府村」は依然音声だけがあり意味は見出せない符牒である。
しかし、「札幌」は違う。

「札幌」の漢字表記には特段の意味を見いだせない。
けれども、「さっぽろ」という音声から私は「時計台」、「すすきの」、「北大のポプラ並木」などの鮮明な(そしてステロタイプな)イメージを想起することができる。

こうして「さっぽろ」はその漢字表記とはかかわりなく、ただの符牒から「意味」のあることばに生まれ変わるのだ。

|

« 地名と意味(その2) | トップページ | 地名と意味(その4) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 地名と意味(その2) | トップページ | 地名と意味(その4) »