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2010年11月 1日 (月)

地名と意味(その2)

何の意味も持たず何のイメージも喚起しないことばにわたしたちは耐えられない。
たとえそれが地名のような固有名詞であっても…。

というのが前回の結論だった。

しかし、その後北海道の地図を眺めていて、あの結論はあやしい、という気分になった。

留萌市、喜茂別町、音威子府村…。

これらの漢字表記から何らかの意味やイメージを汲み取ることはむずかしい。
しかし、こうした「無意味」にわたしたちは平然と耐えているし、それで何の問題もない。

どうやら前言撤回しなければいけないようだ(もっとも、前言撤回はこのブログの名物でもあります!)。

反省してみるに、私がまちがった原因は地名を「ことば」として考えてしまったことにある。

地名というのは土地の「名前」であり固有名詞に分類されていることから、ついつい「ことば」と思い込んでしまったのだ。

「ことば」である以上、それは「意味」に満たされていなければならない。
「意味」のない「ことば」など、あってはならない…。

そんな思い込みが、私のまちがいの原因になった。

地名はただの符牒、音声だけがあり意味を持たない記号と割り切ってしまえばよかったのだ。

意味だけがあり音声を持たないピクトグラフの対極にあるが、「ことば」ではないという点では同じである。
「ことば」ではないが、対象はきちんと指示できるという点でも同じである。

もちろん、もとはアイヌ語としてちゃんとした意味があったのだろう。
それが、日本語環境に移されることによって意味が失われ音声だけが残った。
そして、その音声に無理やり漢字を当てることで今日の「音威子府村」が成立した。

この場合、本当は漢字表記などじゃまになるだけだ。
「オトイネップ村」とするほうが符牒としてはよほどすっきりするし、知らない人が書き方読み方で悩むこともない。

しかし、本邦では今なお漢字=真名の意識が根強いからいたしかたがない。

考えてみればわざわざ北海道の地図など持ち出さなくても、私が毎日のように通過する「須磨」の駅でこのことに気づくべきだった。
「留萌」と同じく「須磨」だって、この漢字表記から格別の意味を汲み取ることはできないのだ。

かくして、今回はひたすら反省の記事になった。

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