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2010年11月22日 (月)

地名と意味(その5)

前回は「須磨」と「銀座」の対比をした。

「銀座」ははじめに意味ありき。
それが漢字の表意機能を用いてこのように表記された。
「ぎんざ」という音はあとからついてきた。
このなりゆきは「東京」や「神陵台」も同じである。

これに対して「須磨」ははじめに音ありき。
もちろん無文字時代のはるかな昔には何らかの意味はあった。
しかし、地名を漢字で表記するころにはその意味はすでに失われていた。
だから「銀座」と対比する場合には、「はじめに音ありき」でかまわない。

古代から受け継がれてきた「すま」に対して、漢字の表音機能を用いて「須磨」と表記した。
依然として意味はない。
あとは、各人がそれぞれの個人的体験に応じてその意味の空白を埋めていく。
「須磨」という地名が意味を持つに至るのは、そのようななりゆきによる。

だから、「銀座」と「須磨」とではその意味の性質も異なる。

「銀座」や「東京」は漢字の表意機能を通じて普遍的な意味を獲得する。
しかし、「須磨」の場合は人それぞれの個人的体験に基づく個別的な意味にとどまる。

ついでながら、地名と意味、表記の関係についてはもうひとつのパターンがある。

「須磨」の西隣の「塩屋」やさらにその隣の「垂水」の場合がその例である。

「しおや」や「たるみ」ははじめに音も意味もあった。
そしてその意味に対応する漢字を当てた。

だから、この場合漢字表記は日本語の漢訳であると言っていい。
「銀座」とも「須磨」とも違うパターンである。

古代からの意味は音声から漢字に乗り換えることで、損なわれることなく今日までたどり着いた。
「垂水」は「須磨」に比べて幸せな経過をたどった、と言えるかもしれない。

さて、「須磨」という地名の意味再生のメカニズムは上でお話しした通りだけれど、実はそこにもうひとつの要素がひそんでいる。

たしかに、「すま」を「須磨」と表記したところで意味が発生するわけではない。
しかし、「須」や「磨」という個々の漢字は、わたしたちに向けて意味を放射してくる。
「音威子府」だって文字列全体としては意味不明だが、個々の4文字は明らかに意味を放射している。

意味の放射は、わたしたちを圧倒する。
ここに、漢字表記の地名に何となく意味があるような錯覚に陥るからくりがある。

漢字のすごいところであり、怖いところでもある。

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