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2010年11月28日 (日)

地名と意味(その6)

地名と意味の関係を考える場合、漢字の介在が話をややこしくした。

それならば、非漢字圏たとえばイギリスやフランスではどうか?

少なくとも、「銀座」や「東京」のように表意文字からスタートしてしかるのち音がついてくる、というパターンはあり得ない。

考えられるのは、無文字時代からそれなりの意味をもった地名の音がローマ字に写し取られる、というパターンである。
いわば、「たるみ」型ですね。

ただ、民族の移動や侵入が日常茶飯のようにあった土地柄だから、時の経過のうちにその意味が忘れ去られることも多かったにちがいない。

そんなときは、意味の空白を残したままとりあえず音を写し取ったのだろうか?
これなら「すま」や「オトイネップ」型にあたる。

いずれにせよ、日本の地名とはちがって音声が主役を務めている。
音声が地名の実体であり、文字はその音を忠実に写し取るだけ。

文字は音声のしもべ…。
そんな音声中心主義の観念が西洋で根強いのもわかる気がする。

ところで、意味の不在はわたしたちを落ち着かない気分にさせるけれども、それはそれで自由な連想をふくらませるチャンスでもある。

私の場合、「すま」には「海水浴客でにぎわうビーチ」のイメージを注ぎ込み、時代をさかのぼっては源兼昌の古歌や源氏物語に連想が及んだ。

反面、「音威子府」は私にとっていまなお意味の空白を残したままである。
しかし、この町に有縁の人々、この町に思いを寄せる人々にとっては、人それぞれのしかたで意味の空白を埋めているにちがいない。

「フィレンチェ」や「ヴェネチア」は、地元のイタリア語では「たるみ」のようにそれなりに意味をそなえた地名だったかもしれない。

しかし、この名がフランス語の環境に入ったとき、「すま」のように意味を失った(かもしれない)。

その意味の空白に、『失われた時を求めて』の語り手である「私」は、あふれるほど豊かなイメージを注ぎ込んでいる。

太陽、百合の花、総督宮、大聖堂…。

ちょうど、私が「すま」に対して自分の体験やありあわせの知識を総動員してその空白を埋めたように。

そして、その意味充填作業の手がかりはやはり音声なのだ。
「私はただ、バルベック、ヴェネチア、フィレンチェと、その名を発音しさえすればよかった」(「スワン家の方へ」Ⅱ)

声の力に導かれて、人は意味の空白を埋めようとする。
それは想像力、ひいては創造力を解き放つ引き金になる。

漢字というくびきがない分、想像と創造の翼はさらにのびやかに広がったかもしれない。

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