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2010年9月26日 (日)

分ける文字 包む文字

前回と前々回は、「うみ」と「いき」をめぐってお話しをした。

日本語の「うみ」。
この語は、「海は生命の生みの親である」という生命の起源を物語っている。

日本語の「いき」。
この語は、「生きることは息をすることである」という生命の本質を衝いている。

また、「いき」は「行く」の名詞形でもあり、「行く」は最後には「逝く」にたどり着く。
なんと「粋」なことだろう!

というのが、そのお話の大要だった。

しかし、「うみ」や「いき」というかな表記だけでは私のお話はみなさんに伝わらない。
上のように漢字を動員してはじめてその意味が明らかになる。

「うみ」や「いき」がカバーする広大な意味領域を、漢字を用いて適切に分割し分析する。
そうすることによって、話を明晰ならしめる。

これが漢字の役割である。
いつかお話しした漢字の意味分割機能である。

その意味では、漢字は「分ける文字」と言っていい。

反対に、かなは「包む文字」である。
かな表記の和語は、多くの意味を呼び寄せ包みこむ。

「書く」も「描く」も「掻く」も「かく」に包みこむ。
「話す」も「離す」も「放す」も「はなす」に包みこむ。
「移す」も「写す」も「映す」も「うつす」に包みこむ。

これらの例はこれまでにもお話してきましたよね。

和語はそのカバーする意味領域がきわめて広い。
これは、世界最少の言語音をやりくりして語を構成しなければならない日本語の宿命である。

だから日本語話者は漢字を手放せない。

そもそも、かなだって「仮名」と漢字表記をすることによってはじめてみずからの運命と使命を認識することができるのだ。
(もっとも、かなにしてみれば「かりそめの文字、なんてひどい!」と憤慨するかもしれないが…。)

もっとも、世の中何もかも分析し明晰にすればいい、というものでもない。

ほんわかとしてつかみどころのない、それでいて包容力のある和語がかえって豊かな詩的連想をはぐくむこともある。

それが、分析と効率に疲れたIT時代のわたしたちを慰める。

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