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2010年8月16日 (月)

うたと日本語(その5)

このブログでは、ここしばらく日本語話者と漢字・漢語との微妙な距離を「齟齬」という漢語で表現している。

わりとむずかしい漢語である。だから日常生活ではあまり使わない。
日常語なら、「いまいちしっくりこないな」というところだ。

文字も見るからにむずかしい。
私ももう手書きでは書けない。

ではなぜ、こんな体が硬直してしまいそうなむずかしい漢語をわざわざ用いるのか?

それは、このことばがわたしたちが漢字・漢語に対して持つ微妙な距離感、太安万侶が抱えていた表記上の「もどかしさ」をずばりと簡潔に表現してくれるからだ。

一刀両断。
快刀乱麻を断つ。

そんな感じなのだ。
おっと、これまた四字熟語、漢語的成句だった。

漢字・漢語との微妙な距離感を言いあらわすのに当の漢字・漢語に頼らなければならないのだから、矛盾もいいところだ。

かといって、ほかに方法がない。
和語では、この仕事は手に負えないのだ。
和語には漢語のようなパワーと分析力がない。

だから、わたしたちは漢字・漢語から離れられない。

反面、日本列島の温和な風土にはぐくまれた繊細な情緒や叙情をあらわすのに、漢字・漢語はあまりにもパワーがありすぎる。

これまで日本の歌に漢語がほとんどあらわれなかったのは、そのせいだと思う。

しかるに「ミューステ」において漢語がひんぱんに登場するようになったのは、日本語話者の情緒や叙情が変質したからではないか?

と、前回まではそんなふうにごく素朴に考えていた。

しかし、さらによく考えてみれば「ミューステ」に登場する歌の多くは情緒や叙情の表現よりも人間が持つパワーの表出に重きを置いているのではないか、ということに思いが及ぶようになった。

そういえば、「ミューステ」の歌の多くはパワフルなダンスや強烈な照明効果と不可分である。

なるほど…。
それならば、パワーあふれる漢語が連発されるのもむべなるかな、と妙に納得してしまった。

つまり、これまでの私の「ミューステ」観察が浅薄だったのだ。

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