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2010年8月 9日 (月)

うたと日本語(その4)

「故郷」は「ふるさと」なのか「こきょう」なのか?

この2千年来、日本列島を「故郷」とする人々にとっては、やはり「ふるさと」がふさわしい。

わたしたちは「ふるさと」には自然体でつきあうことができる。
でも、「こきょう」に対しては、ちょっと身構えるところがある。

まして、前回登場した「齟齬」なんて、字を見ただけで体が硬直してしまいそう。

ところで、世の中には愛称というものがある。
新しくできた乗り物や建物、キャラクターなどに親しんでもらうために、広く愛称が公募される。

なにしろ親しんでもらうのが目的だから、自然体で向き合えることばでなくてはならない。
身構えてしまうような語彙なんて問題外。

だから、愛称には漢語はほとんど採用されない。

たとえば、先ごろ長い旅から帰ってきた小惑星探査機は「はやぶさ」だ。
新幹線だって、「ひかり」、「のぞみ」、「こだま」、「やまびこ」ですよね。

野口さんが乗っていた宇宙船実験棟の「きぼう」。
あれはは漢語じゃないかとまた叱られそうだけれど、ひらがな表記にして和語らしく見せかけることでようやく愛称として受け入れてもらっている。

この手はわりとよく使われる。
たとえば、「未来」なんてりっぱな漢語だけれど、そのままでは愛称に採用してもらえない。
だから、「みなとみらい21」や「つくばみらい市」になる。

原子力発電所の「もんじゅ」や「ふげん」も同じこと。
いくらなんでも「文殊」や「普賢」のままでは愛称にならない。

語は同じでも、文字表記を変えることで印象をがらりと変えてしまうという戦略。
まさに日本語ならではの裏わざですね。

それはさておき、和語は自然体でつきあえる自前のことば。
漢語はちょっと身構えてしまう「外のことば」。

というのが、これまでのかな・和語と漢字・漢語に対するわたしたちの常識だった。

少なくとも「ミューステ」で発生している事態を目の当たりにするまでは…。

私はこれまで、歌は人々の抒情の発露だと思っていた。
つまり、愛称をはぐくむ言語感覚と同じ土壌の上にあると思っていた。

しかし、記憶、暴走、好奇心、科学、権利、無限、才能なんて漢語がひんぱんに歌詞にあらわれるに至って、この常識が通用しなくなった。

常識が通用しなくなったのは時の流れで仕方ないとして、ではこの常識が通用しなくなった後はどうなるのだろう?

前回記事の最後のほうで、「ミューステ」現象は日本語話者の抒情の変質を象徴しているというお話をしたけれど、ではどのように変わったのだろう?

それがよくわからない。

抽象的な漢語を自在にもてあそべるほどに、わたしたちは理屈っぽく成長したのだろうか?
それとも出来合いの漢語に依存せざるを得ないほどに、わたしたちの感性はみずみずしさを失ってしまったのだろうか?

 

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