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2010年7月31日 (土)

うたと日本語(その3)

はじめに補足、というかいいわけをひとつ。

前回記事では、「われは海の子」には漢語は一切含まれていない、と言った。

その後、じゃあ「千里寄せくる海の香を…」の「千里」はどうなんだ、漢語じゃないのか、というおしかりを受けた。

うーむ、弱った…。

たしかにその通りだ。
しかし、この部分は数値表現のための特殊な用法、ということで見逃していただけませんか?
「十五で姐やは嫁に行き…」における「十五」と同じことである。

ところで、前回の最後では心ならずもみなさんに二者択一を迫ってしまった。

「ふるさと」か「こきょう」か?

私なら、「ふるさと」が自然に浮かぶ。
私の言語感覚の古層からおのずから浮かび上がってくる、そんな感じ。

きっと私のなかのDNAがそうさせるのだろう。

反対に、「こきょう」といえばどうしても「故郷」の文字が浮かぶ。
そして、そのいかめしい漢字表記に対してやや構えてしまう。
その拗音長音の連なりに、かすかな違和感をおぼえる。

「故郷」ならまだいい。

実は、「ミューステ」にあらわれる漢語は前回の例示だけではない。
たとえば、こんなのもあった。

記憶、暴走、好奇心、科学、権利、無限、才能…。

ずいぶんと生硬な抽象語ではないだろうか?
日常会話にもそれほどあらわれない、こむずかしい議論のための用語だ。

これまでの感覚では、決して歌の中に取り込まれることのなかった語彙である。
ふつうなら「記憶」は「思い出」だろうし、「無限」なら「限りなく」になりますよね。

身近な風物や情緒を歌のかたちで表現しようとするとき、漢語はうまくなじまない…。
明治大正の作詞者たちはそんなふうに感じた。

しかし、21世紀初頭の作詞者たちはもうその感覚を共有していないのかもしれない。
漢字・漢語に対する2千年来の「齟齬」の感覚も消失したのかもしれない。

日本語の歌へのなまの英語の露出。
日本語の歌への漢語の進出、和語の後退。

このような事実から、わたしたちの情緒や叙情の「質」はこのところ明らかに変わってきた、と私は感じる。

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