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2010年7月11日 (日)

「本質」の「ほんしつ」

ことばはものごとの名前である。

というのは聖書以来の伝統的な言語観である。
言い換えれば古くさい言語観である。

しかし、しばらくはこの時代遅れの言語観にしたがってお話を進めよう。

ことばはものごとの名前である。
だとすれば、ことばはそれらのものごとに貼りつけるラベルのようなものである。

目の前に白い毛で包まれたむくむくの四足動物がやってくれば、そいつに「ひつじ」というラベルを貼りつける。

道端にごつごつした黒っぽくて硬い野菜が転がっていれば、それには「かぼちゃ」というラベルを貼りつける。

ここまではいい。

でも形のないもの、目に見えたり手でさわったりできないものごとにはどうやってラベルを貼ればいいだろう?

そこでわたしたちが考えたのは、とりあえず間に合わせの箱を持ち出して来てそれにラベルを貼る、という方法である。

この箱には「本質」というラベルを貼り、あの箱には「主観」というラベルを貼る。
外からは見えないけれども、「本質」や「主観」はこの箱の中におさまっています、というわけだ。

しかし、困ったことにこの「意味の箱」はだれにも開けることができない。
箱に「本質」というラベルが貼っている以上、中には「本質」ということばのありがたい意味が入っている、と信じるしかない。

しかし、箱の中は本当は空っぽかもしれない…。
開けることができない以上、そんな疑惑をぬぐいきれない。

少し前に、「本質」なんてものがこの世に「ある」のだろうか、という素朴な疑問を呈してみた。

本当のところ、「ある」のは「本質」ということば、つまり箱に貼ってあるラベルだけじゃないか、という気がしないでもない。

みんなそのことにはうすうす気づいていると思う。

しかし、「本質」なるものが「ある」か「ない」か、そんな議論はわたしたちを不可知論のがけっぷちに誘い出すようなものだ。

だから、とりあえず「ある」と仮定して話を進めましょうよ。

そんなところがみなさんの暗黙裏の合意かもしれない。
そして、そんな危なっかしい合意をからくも成立させているのが、漢字のインパクトなのである。

ひらがなの「ほんしつ」では合意は成立しない。

ともあれ、こんなからくりがひそんでいる以上、「本質」なんてことばは安易に連発しないほうがいいかもしれない。

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