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2010年7月25日 (日)

うたと日本語(その2)

前回は、「ミューステ」を見ながら日本語の特性について考えた。

実はもうひとつ、私がこの番組でひそかに注目していることがある。

それは、歌詞の中に漢語がひんぱんに登場するようになった、という事実である。
むかしに比べて歌詞の中にあらわれる漢語の比率が明らかに高くなってきたのだ。

たとえば、先週の放送では以下のような漢語が登場した。

勇気、情熱、希望、太陽、必要、競争、冒険、魔法、勲章、激情、欲望…。

日常会話ではよく使われるごくふつうの漢語だけれど、少し前まで歌詞の中に漢語があらわれるのはわりにめずらしいことだった。

たとえば、文部省唱歌を思い起こしてみよう。
みんな(といっても中高年以上だけれど…)がよく知っている「ふるさと」や「朧月夜」や「われは海の子」には漢語は一切含まれていない。

文部省唱歌が作られた時代は、漢文の素養が今よりもはるかに世間にゆきわたっていた時代である。
まして作詞者はみな漢文の権威である。
それなのに、歌詞の中にはまったく漢語が登場しない。

自分たちの身近な風物や情緒を歌のかたちで表現しようとするとき、漢語はうまくなじまない…。
明治大正の作詞者たちはそんなふうに感じたのだ。

これは、古事記序文で太安麻呂が吐露した「もどかしさ」に通じる。
わたしたちの心情は、どこか漢語とフィットしないところがあるのだ。

漢字・漢語が日本列島に渡来してかれこれ2千年。

漢語は日本語のなかにすっかり根付いている。
日本語の語彙の中で、なくてはならない位置と比重を占めている。
漢語なくしてはわたしたちの日常生活はままならないし、だいいちこのブログも書けない。

それでいて、わたしたちはいまだに漢字・漢語に対して「齟齬」の感覚も失ってはいない。

「漢語」といえばいかにも日本語の構成要素のようだけれども、ありていにいえば中国語である。
日本語の音韻体系のオブラートに包まれていかにも日本語風にふるまっているけれども、しょせん「外のことば」なのである。

漢字表記の「故郷」は、和語では「ふるさと」であり、漢語では「こきょう」である。
「こきょう」は拗音と長音を動員することで、何とか中国語を日本語の中に組み入れたものだ。
そういえば、「ミューステ」から採集した上の漢語も拗音と長音のオンパレードだ。

山に兎を追い川で小鮒を釣った少年の日々を思い起こすとき(イメージが古い!)、わたしたちの心に自然に浮かび上がってくることばはどちらだろう?

「ふるさと」だろうか、それとも「こきょう」だろうか?

あなたなら、どちらが浮かんできます?

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