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2010年6月20日 (日)

漢字の目くらまし

床の間には漢字が似合う。
かなやハングルやローマ字ではさまにならない。

少し前に、そんなお話をした。

その記事の最後のほうでは、漢字を大きくて重くて深い器になぞらえてみた。
その器には、ことばの意味だけでなく芸術性や精神性もたっぷり注ぎこめる。

それに対して、かなやハングルやローマ字はせいぜい紙コップだと申し上げた。

入れものが人の心理に与える影響は小さくない。
同じお抹茶でも、ずっしりと持ち重りのする赤膚焼の茶碗で飲むのと紙コップで飲むのとでは味がちがう。

これは、ある種の幻惑作用である。

たとえば「本質」ということば。

むずかしい本や評論にはよく登場する。
「このブログの筆者は言語の本質がわかっていない」なんて使いかたをする。

そう言われるとつい恐縮してしまう。

でも、ちょっと待ってください。

「本質」などというものが本当にこの世に「ある」のですか?
「本質」とは一体何のことなのですか?

よくよく考えてみると、よくわからない。

辞書には「あるものをそのものとして成り立たせているそれ独自の性質」なんてわけのわからない説明が書いてある。

それに、辞書の説明は「本質」ということばを別のことばで言い換えただけなのだ。
「本質」なるものがこの世に「ある」かどうかには一切ふれていない。

でも、「本質」という漢字を目の当たりにすれば、読み手はその迫力に圧倒される。
そして、上のような素朴な疑念はすっかり封印されてしまう。
何だかよくわからないけれど、物事の核心を突く大事なことを言われているようで恐縮してしまう。

漢字のインパクトと権威による架空の存在感。
それがもたらす一種の思考停止。

これを「ほんしつ」とかな表記にすれば、そこには権威も何もない。

だから、読み手は遠慮なく疑問を向けることもできる。
読み手の判断力がいきいきとはたらき始める。
「なんだかうさんくさいな」と眉に唾をつけることもできる。

「本質」か「ほんしつ」か。
ことばを盛りつける器によって、その効果の違いは絶大だ。

わたしたちはこのことを経験的に知っているものだから、自分のことばに自信がないときには意識的に、あるいは無意識のうちに漢字の権威にすがろうとする。
自分でもよくわかっていない漢語を連発する。

私だって人にえらく思われたいという気持ちがあるものだから、ついつい漢字を多用してしまう。
このあたりの消息は、外来語を多用する心理とやや似ている。

わたしたちが漢字を必要以上に多用するのは、「漢字=まな」という古代からの意識があるからだ。
ということは少し前に何回かお話しをした。

しかし、それだけじゃない。
わたしたちには不純な打算的動機もあるのだ。

ちょっとずるいですね。

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