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2010年4月18日 (日)

「濱」と「浜」(その6)

横浜といえば、眞鍋かをりさんのことが思い浮かぶ。
ブログの世界でも縁の深い人だ。

ここしばらく新旧の字体や異体字のことを考えているけれども、彼女についてもこのことが言える。

「眞鍋」さんなのか「真鍋」さんなのか?

新聞雑誌やネットで拝見するかぎり、どちらの表記も存在する。
伝え聞くところによると、ご本人は「眞鍋」のほうを使ってほしい、という意向のようだ。

前にもお話ししたように、日本文化、日本語の表記文化は「置換」でも「融合」でもなく「共存」の原理が支配している世界である。

だから、かなができても漢字は残り、新字体ができても旧字体は残る。
さまざまな異体字も排除されない。

とりわけ人名や地名、結社の名前など固有名詞の世界はこうした文字の少数民族がすみつきやすい世界である。

「眞鍋」さんも「横濱」も「國學院大學」も、かれらを暖かく迎えている。

固有名詞はそれぞれのアイデンティティを構成する要素だから、他人が容喙することはかなわない。
つまり「聖域」である。

異民族も少数民族も、この聖域に守られてしっかり生き続けている。
そして、わさびのように日本語表記の世界を引き締める役割を果たしている。

「かをり」のほうは、彼女の本名なのか芸名なのか、私は知らない。

いずれにせよ、ふつう「かおり」とするところをひとひねり利かせている。
それによって、何らかの記号的意味を発信していることはわかる。

旧かなづかいを廃し新かなづかいを制定した時にも、「は」と「へ」と「を」は残った。
ここでも、共存原理がはたらいたのだ。

だから、「かをり」さんが可能になった。

つまり、「眞鍋かをり」さんの中には日本文化の共存原理が凝縮されているのである。

ローマ字表記なら「MANABE KAORI」あるのみ。
面白くもおかしくもない。

そうそう「かをり」で思い出したけれど、小椋佳さんの「シクラメンのかほり」という曲がありましたね。

この場合は「を」とちがって新かなづかいの許容範囲さえも逸脱している。
それでも、どこからも文句は出ない。
むしろ、そのしとやかな印象が効果的、と好感を持たれたりする。

考えてみれば、表記の世界だけじゃない。
漢字の読みだって、呉音、漢音、唐音が共存している。

たとえば「銀行」、「行列」、「行脚」…。
関西人なら、「関西大学」と「関西学院」をきちんと読み分けなければならない。

それだけ、日本文化の共存原理は深く浸透しているのだ。

おかげで、日本語はますますややこしくなる。
EPAで来日しているインドネシアやフィリピンの看護師さん介護士さんの苦労がしのばれる。

 

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