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2010年3月22日 (月)

「濱」と「浜」(その2)

日本列島では、古来から「共存」の原理が支配的である。

というのが前回のお話のだった。

文字表記の世界でもこの原理が支配している。

だから、漢字とかなが混在したユニークな表記システムが生まれるし、新字体の制定後も旧字体はちゃんと残った。

漢字を廃止してかなやローマ字のような音標文字に切り替えよう、という主張は幕末維新のころからあった。

でも、カナモジ運動やローマ字運動はそれなりの合理性を持っていたにもかかわらず、結局大きな広がりを持つことなく今日に至っている。

その理由はいろいろ考えられるにせよ、いちばんの問題は漢字廃止運動が韓国やベトナムのように漢字から音標文字への全面的な「置換」を目指したからではないか、と私は思っている。

このことが日本古来の「共存」原理にそぐわなかったのだ。

いずれにせよ、この「共存」原理のおかげで日本語の表記は世界でもまれにみる豊かさを享受することになった。

ただ、豊かさは裏を返せば「ややこしさ」ということでもある。

たとえば、日本には「浜崎」さんや「浜上」さんという姓がある。
さほど珍しくないので、みなさんのお友だちにもいるかもしれない。

でも、この「浜上」さんは「濱上」さんかもしれないのだ。

うっかり手紙やメールで「浜上」さんと書いてしまうと、相手は「軽く見られた」と気を悪くするかもしれない。

名前を間違えるのは大変失礼なことだから、いただいた名刺は大切に保管してあて名を書くときはいちいち確認しなければならない。

面倒といえば面倒なことである。

ローマ字には書体の違いはあっても、新旧字体の混在はない。
漢字の本場、中国でも簡体字と繁体字の混在はない(と思う)。

このブログではよくお話ししていることだけれども、世の中いいことづくめはないのだ。

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