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2010年2月15日 (月)

文字と人格

前回お話ししたNHK木曜夜8時の連続テレビドラマ「とめはねっ!」は、残念ながら先週で終わってしまった。

このドラマでは、えらい書家の先生が高校生たちの作品を寸評するシーンが出てくる。

たとえば、「うーむ、この作品はここの線のところに心の迷いが出ておる」という風に。

そう、書道の大家は作品を通して書き手の心のありようまで見通すことができるのだ。

前回、文字を書くことはダイナミックな身体運動だというお話しをした。
そして、心身は一如である以上、書には心のありようも否応なくあらわれる。

手書きの時代、文字には書き手の人格が宿っていた。

「文は人なり」ということわざがあるが、内容もさることながら筆跡そのものにも人格があらわれる。

だから、標準の筆記具が毛筆から硬筆に変わっても「ペン字の通信教育講座」なんてものがちゃんとあった。

ところで、毛筆は柔らかい。
柔らかい筆記具というのは世界でも珍しい。

エジプトでもメソポタミアでも、筆記具は硬いものだった。
粘土板であれ金属片であれ亀の甲羅であれ、「書く」という行為は何か硬いものでその表面を引っ掻くことから始まった。

だから、日本語の「かく」という動詞は「手紙を書く」と「背中を掻く」を包含している。

英語でもペンの語源は「鳥の羽根」ということだが、羽根ペンといっても硬い軸の部分を使う。
漢字だって公平に見て硬筆のほうが書きやすいと思うのだが、どうして毛筆が発達したのだろう…。

という詮索はさておき、柔らかい筆記具は書きにくい。

ちょっとした姿勢の変化、身体の動きがすぐ文字の乱れとなってあらわれる。
ドラマでも、主人公が筆を持つ手首の角度を微調整するのに苦労するシーンがあった。

それに、心身一如だから心の迷いや葛藤も文字に反映される。
したがって、書を習うことは精神修養につながる。

多分そのような効用も考慮されて、日本の高校にはふつうに書道部がある。
そして、ドラマでも紹介されたように「書道甲子園」なんてのもある。
たしかに、書は身体運動、スポーツなのだから甲子園大会があっても不思議ではない。

それにしても、文字を書くことを目的にしたクラブ活動がありその全国選手権大会がある、なんてことが英語圏やアラビア語圏の高校でもあるのだろうか?

カリグラフィーは漢字圏だけのものではないけれども、文字にこれほどの精神性を盛り込み、情熱を注ぎ込めるのは、たぶん漢字以外にはないと思う。

ともあれこのドラマを見ながら、やはり高校生はいいなあ、とはるか昔の自分の高校時代を懐かしんだことでした。

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