« 文字と人格 | トップページ | 床の間の勝負 »

2010年2月22日 (月)

ロボットのテキスト

NHK木曜夜8時の連続テレビドラマ「とめはねっ!」(残念ながらもう終わりました)に登場する書道の先生は、弟子の作品をにらんでその心の迷いを鋭く指摘していた。

しかし、手書きのテキストなら私のようなしろうとでもある程度書き手の心のありように迫ることは可能だ。

毛筆だけでなくペン字でも鉛筆書きでも、筆圧や筆勢はわかる。

書き手が抱える心の迷い、ためらい、葛藤、懊悩…。
どれほど隠そうとしても、それらは文字の線に形に濃淡にバランスに否応なくあらわれる。

今ほど修正もらくじゃないから、テキストにその痕が残る。
消しゴムで消した後に書き直す、その個所の消しあと、紙のしわ…。

そこからは書き手の鼓動や体温がひしひしと伝わってくる。
それは、文字の向こうに隠されたもうひとつのメッセージなのだ。

えらい作家の手稿が博物館なんかに展示されている。
何度も何度も推敲して書き直したあとが残っている。
文学研究にとっては大切な資料だ。

しかし、小説家がみんなワープロで書いている今では手稿を通じて作品の秘密に迫ることは不可能になった。
文学研究者が頭を抱えている様子が目に浮かぶ。

このブログのように、デジタルテキストは仮面をかぶっている。
ロボットのようにいついかなる時でも無表情なテキストである。

そこにはインクのしみも、消しゴムのくずも、紙のしわも何もない。
筆圧や筆勢などはそもそも存在しない。

わたしたちの前には取りすました、お行儀のよいテキストだけがある。

ところで、テキストは「中身」と「形式」でできている。

活字印刷、そしてデジタルテキストの出現によって、「形式」のほうは極限まで均一化、無個性化してしまった。

そして、「形式」の中に宿っていた書き手の生温かい身体性や未分化の感情は不純物としてテキストから排除されることになる。

活字印刷やデジタルテキストは純粋な「中身」だけで勝負するのだ。

たしかに、中身で勝負というのは正論かもしれない。
しかし、何だか味気ない。

「形式」と「中身」は別物じゃない。
実証はできないけれども、手書きからデジタルライティングへの「形式」の変化は「中身」にも影響を及ぼしているにちがいない。

ロボットが書いたテキスト、なんてあるはずもないけれど、そんなふうに感じさせる味気ないテキストが心なしか増えてきたような気がする。

|

« 文字と人格 | トップページ | 床の間の勝負 »

コメント

とめはねっ!面白かったのに、とてもとても残念です。
(´;ω;`)ウウ・・・
再放送やらないかな…

投稿: ひよこ | 2010年2月22日 (月) 18時40分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 文字と人格 | トップページ | 床の間の勝負 »